ゆすりのパラドクスを論証できるか
この難問に、これまで多くの学者がチャレンジし、ゆすりの不正さについて様々な説明が試みられてきました。
まず、ゆすりは、ゆすられた者を永続的に支配下に置くことが、単なる取引とは異なる点という考え方があります。
確かに、ゆすりのネタがゆすった者の手元に残る限りは、相手を一生ゆすり続けることができます。実際、ゆすりが1回の金品の授受で終わることはまれで、複数回にわたって続くことが多いでしょう。
しかし、それでは、1回の金品の授受だけでゆすりを終えれば、それは処罰する必要のない取引ということになります。また、ゆすりが複数回続いたとしても、最初の1回目を処罰する根拠はなくなります。こうした考え方は、私たちにとって納得できるものでしょうか。
また、ゆすりの被害者はゆすられた人ではなく、そのネタになっている情報に正当な関心をもっている第三者であり、その情報が隠蔽されて、知る権利が侵害されたことを被害とみる考え方があります。
例えば、ある夫の不倫を知った者がゆすり、金でその情報を揉み消した場合、その夫の不倫を知ることができなくなった妻が被害者というわけです。
一見、納得できる考え方ですが、すると、この夫はゆすりの被害者ではなく、ゆすった者と共に、妻の知る権利を侵害した共犯者ということになります。
しかし、現実的には、このゆすった者が恐喝罪で捕まった場合、夫は被害者として扱われることになります。
もちろん、ゆすった者が捕まれば、妻は夫の不倫を知ることになり、離婚を訴えるかもしれません。しかし、その離婚の争いと、ゆすりの当罰性は別の問題です。
やはり、この夫をゆすった者との共犯者とするのは、私たちの直感に反するのではないでしょうか。
また、ゆすりが高い要求額であることを不当とする考え方があります。しかし、その情報の価格が高過ぎるかどうかを決めるのは、ゆすられた人です。高過ぎると思えば、払わない選択もあるのです。
これは、美術品などの売買と同じではないでしょうか。興味のない人から見れば、あの絵が何百万円もするというのは不当に思えるかもしれません。しかし、これは当事者たちの自由な取引です。
また、情報をビジネスにするのは報道関係者なども同じです。もちろん、ゆすりと報道を一緒にするわけではありませんが、情報をビジネスの手段にしているという意味では同じと言えます。情報をビジネスにすること自体を違法とすることはできません。
また、要求額が高過ぎると思っても払わざるをえないために、犯罪によってお金を稼ごうとする者が出るから、ゆすりを禁圧すべきだという説明もあります。
確かに、そういったことはあるかもしれませんが、例えば、アイドルグッズを購入するお金を得ようと犯罪行為をする者がいるから、アイドルグッズの販売は違法であると言えるでしょうか。
つまり、ゆすりと、ゆすられた人がそれによって犯罪を犯すことは別に考えるべきなのです。
このように、ゆすりの当罰性を考えていくと、その答えを出すことは本当に難しいことがわかります。
実際に、ゆすりも正当な取引であり、処罰する理由はないというラジカルな考え方もあります。
しかし、不正行為などを知られてもお金で揉み消すことが正当な手段となると、富裕者にとっては有利ですが、お金のない人はその選択肢をもつのが難しいことになります。そのような社会が、本当に自由で公正な社会と言えるでしょうか。
いずれにせよ、ゆすりのパラドクスについては、完璧な論証が未だできていないのです。そのことは、社会における自由と強制について、だれもが納得する客観的な答えが得られていない、ということでもあるのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。