近年、パワハラやセクハラなど、立場の格差を利用した強制や強要に厳しい目が向けられるようになっています。それは、自由で公正な社会を実現するにはとても大切なことです。しかし、そのためには、なにが強制や強要に当たるのか、その線引きを明確にすることが必要です。
ゆすりから強制の本質を考える
他人に何かを「強制」することは犯罪になることがあります。例えば、無理やり義務のないことをさせれば強要罪が、無理やり金品を差し出させれば恐喝罪や強盗罪が、無理やり性交に応じさせれば強制性交等罪が成立する可能性があります。
こうした「強制」は、他人の「自由」という重要な権利を侵害するために、犯罪として刑罰の対象とされていると言えるでしょう。
一方で、私たちの意思決定の多くが、外部からの心理的なプレッシャーからなされていることも事実です。
例えば、仕事の依頼なども、それを断った場合に予想される不利益を回避するために、無理をしても引き受けることは生活上よくあることです。
その意味で、強要それ自体は日常的な事柄とも言えます。仕事を依頼して相手にプレッシャーを与えることをすべて犯罪としていたら、社会は回らなくなるでしょう。
しかも、刑罰は、個人に対する最も峻厳な国家権力の発動です。だからこそ、犯罪として処罰するべき「強制」と、そうでない「強制」を主観的、感情論的に捉えるのではなく、誰でもわかる明確な基準で、客観的に線引きをすることが必要です。
しかし、実は、これがなかなか難しい問題なのです。
この問題を考える素材のひとつが「ゆすり」です。ゆすりとは、他人には知られたくない情報などをネタに人を脅して金品を要求する行為で、恐喝罪に当たるのは当然と思われています。
しかし、これも考え方によっては、金品を支払えば、公開されても仕方のない情報を秘密にしてもらえる「取引」と考える余地もあるわけです。
例えば、情報をバラされたくなければ100万円払えと要求されたとき、自分にとって、その情報をバラされることが100万円に値するのか考え、値しないと思えば、バラされても良いという判断もできます。
また、要求額が10万円で、それなら払っても良いと考えれば、10万円でその情報の秘密は守られることになります。これは、通常の取引と変わらない形です。
要は、ゆすられている人は金品を支払うことを強制されているように思われがちですが、金品を支払えば秘密が公開されないという選択肢が得られた、と考えることもできます。その場合、むしろ、選択の自由が拡大されたとも言えるわけです。
これが「ゆすりのパラドクス」と呼ばれる問題です。この問題は、まさに、刑罰の対象となる強制の客観的な線引きを考える、格好の素材になると言えます。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。