
高度に情報化された国際社会において、気づかぬうちに私たちの「当たり前」は書き換えられているかもしれません。AIが生成する言葉や動画、SNSが拡散するナラティブ(物語)、広告が精密に狙う感情――いまや現実はデジタル技術によって再構成される「可変的なもの」となっています。その揺らぎのなか、私たちは何を信じ、いかにして自由民主主義を守ればよいのでしょうか?
デジタル技術によって揺さぶられる「共同主観的現実」
有史以来、人間社会は、共有された信念体系やナラティブ(物語)によって構築されてきました。『サピエンス全史』で知られる歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、その具体例として、宗教や法律、通貨、さらには民主主義や専制主義といった政治体制も、人々が共有するナラティブに基づいて成立する「共同主観的現実」だと指摘しています。
しかし、もしこの共通認識そのものが、私たちの気づかぬうちに少しずつ“改ざん”されているとしたらどうでしょうか。これはSFでも陰謀論でもありません。現代社会では、インターネットやスマートフォン、AIといった情報技術が「現実」の形成を支える重要な装置として機能しており、私たちの認知や判断の基盤にまで深く入り込みつつあります。もはや情報技術は単なる通信手段や処理装置ではなく、何を信頼し、どの言葉が社会的に「正しい」とされるのかという判断そのものに影響を与える存在となっているのです。
このように、アルゴリズムや情報インフラの設計が人々の認識を左右する時代において、現実は技術的に再構成される可能性をもっています。そこでは、もはや領土や軍事だけが戦い(競争)の場ではありません。認知や言説のレベルでの「影響力の争奪」が、新たな国際的競争領域として浮上しています。
従来、ヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を単位とする国際秩序では、戦略的な干渉や諜報活動は国家またはその代理主体の行為とされてきました。しかし今日では、現実認識に介入するアクターは国家だけに限られません。グローバル・プラットフォーム企業、さらには一般の個人ユーザーまでもが、情報発信や拡散を通じて社会的な認知の形成に関わる時代となっています。こうした非対称で多元的な構造は、私たちの「共同主観的現実」を操作可能なものとし、民主的プロセスや国際秩序に深刻な影響を与えています。
このような変化を踏まえ、私は「情報セキュリティ」という概念を、単なる情報の防御の枠から再定義する必要があると考えています。すなわち「すでに獲得した価値が守られていること」という安全保障の観点で、サイバー空間の情報セキュリティは「情報インフラの健全性」をいかに保つかという課題でもあると感じています。近年では生成AIによる自動コンテンツ生成、ターゲティング広告などトラッキング技術を利用した個別最適化アルゴリズム、さらにはSNS上で活動する自動投稿プログラム(bot)などが悪意ある目的で利用される事例が増えています。
こうした情報技術の応用は、選挙干渉や社会の分断化といった「デジタル影響工作(Digital Influence Operations)」の技術的基盤にもなっています。デジタル影響工作とは、「国家や組織がデジタル技術を用いてターゲットの意思決定や行動を変化させようとする活動」を指します。言い換えれば、現実認識そのものをめぐる情報戦がネット空間を媒介として進行しているのです。
次章では、そうしたデジタル影響工作の具体的な実例としてロシアによる情報操作の手法を取り上げ、その実態を詳しく見ていきたいと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
