2024.03.14
- 2019年7月17日
- 国際
フランス人はなぜデモを続けるのか
川竹 英克 明治大学 名誉教授(元経営学部教授)2018年11月からフランスで全国規模で拡がったデモは、日本でも一時大きく報道されました。今回のデモは燃料税増税がきっかけでしたが、その主張の根底には格差社会への不満があります。この社会問題はフランスに限らず、いま、世界各国で顕在化し、日本でも指摘される問題になっています。しかし、日本でフランスのような大規模なデモが起こることはありません。その違いを、フランスから日本を考えてみると、日本人自身が気づいていないことや、見えないことが、見えてきます。
デモという古典的な市民の活動を生きるフランス
もちろん日本でも、沖縄では米軍基地の辺野古移設をめぐり住民らによる反対運動が起きていますし、東京であれば、LGBTの認知を訴える新宿や渋谷界隈のデモや、ヘイトスピーチを繰り返して恥じない集団が行っている新大久保界隈のデモもあります。それに忘れてはならないのは、毎週のように国会前で行われているデモ、このデモの主張のなかには、脱原発、特定秘密保護法反対、集団的自衛権反対など国民全体にとってとても重要なものがあります。
でも、記憶に残るところで言えば、安保反対運動、ベトナム反戦運動や学園紛争など、60年代、70年代には、若者や労働組合を中心にデモが全国的な広がりをもった時代がありました。では、この時代以降、デモの声なき声が全国に響き渡る必要などもはやないほどにこの国は平和で平等な社会になったのでしょうか。
むしろ、「勝ち組」、「負け組」などという下品な言葉を無邪気に口走る若者が出現するほどに、ゆっくりと、かつ確実に社会は分断され、不安定な社会に変貌しつつあるのではないかという印象を受けます。これは日本に限ったことではありませんが…。
グローバル化という圧倒的な力のまえで、今さらデモでもないだろうと呟きつつ、自分の暮らしが良ければ良い、自分がハッピーであれば良いという、とりあえずの満足感を求め、社会のことは誰かに任せて、多数派に迎合して生きる方がストレスも少なくて楽という考えもなんとなくわかります。こう言う気持ちではローカルに呟くことはあってもグローバルに広がるデモなど想定外なのも納得がいきます。でもフランス人はデモをすることが今でも日常の一部なわけです。
我々が依存している社会、近代社会は民主主義や人権という理念によって基礎づけられ、少なくとも、その理念を国民が、市民が共有し支えあうことで近代国家でありえたわけです。しかし、この民主主義というとりわけ壊れやすく華奢な制度や人権という理念を守るには、それを人任せにし、自分は日常に満足するだけでは不十分なのも確かです。
この意味でフランスと日本で違うのは、フランスは1789年に始まった「大革命」以来、共和派と王党派との拮抗の歴史のなかで今日の共和主義国家に至っていることでしょう。日本の政治体制については、専門でもないし正確なことは言えませんが、共和制でないのは確かです。
共和制はその語源に「みんなのもの」という意味を持っていますが、フランス人は、漠然とした「国民」感情よりは、明確な「市民」意識の方が強いとでも言うべきでしょうか、横浜市民とか京都市民とかいう戸籍上の分類とは異次元の、民主主義の基本単位である「市民」という意識、共和制を共有し支え合う「市民」という強い意識、そして、それを受け継いできた誇りのようなものがあるととりあえず言っておきましょう。こういう説明は少々図式的ですが、彼らにとってデモとはこの意識の表現手段のひとつではあります。