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2019.07.17

フランス人はなぜデモを続けるのか

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では、日本人のデモとは…

川竹 英克 前置きをしているうちに時間がなくなってきましたが、西欧という「充実した記号」への脅迫観念の世界にむしろうんざりしながら日本にやってきたロラン・バルトは、1960年代の「全学連」のデモを見るわけです。当時の学生デモは、ちょうど中国人街のお祭りで見かける龍踊りのように蛇行する「ジグザグデモ」と言われるもので、今では交通規制が厳しくなって見られなくなりました。フランスのデモのように通りいっぱいに広がって行進するものを日本でも「フランス式デモ」と言うようですが、この「全学連」のデモを見たバルトにはやはりこれがひとつの記号に見えたわけです。

 彼によれば、西欧においてデモとは根源的な自発性と凶暴性を秘めた集団の主張の表出と考えられていますが、「全学連」のそれは整然として統率され演出され、主張というより表現、あるいはひとつの見世物のように、まるでマスゲームのように見えるというわけです。ここではシニフィエとしての主張、時にその暴力性は、それが生じる瞬間にシニフィアンとして、自己規制された記号へと絶えず収斂し消滅すると言っています。もちろん日本でもデモに伴う暴力はいつも問題になりますが、革命を何度も経験した国からすると、「全学連」の暴力的なデモも、お行儀のいいものに見えたということでしょうか。

 シニフィエを欠いたシニフィアン、空(くう)なる記号、これがこの国を満たしているのは今も昔も変わらないかも知れません。

>>英語版はこちら(English)

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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