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民族や地域を越えて共有されたイスラーム教

 そもそも、私たちはイスラーム教がどういうものなのか、どんな教えなのか、知っているでしょうか。ユダヤ教やキリスト教の「兄弟宗教」であることも、知らない人が多いのではないかと思います。例えば、ジハードも「聖戦」などと訳され、戦いのみを推奨する教えのように思われています。しかし、ジハードの語源はアラビア語の「努力」で、自分の信仰を深めるために努力することであり、神のために自己犠牲を払うことが、ジハードの元々の意味です。こうした、いわば心のジハード(修身・克己)を大ジハードといい、信仰のために武器を取って戦うことを小ジハードということもあります。しかし、この場合の武器とは、ペンや弁舌という場合もあります。つまり、信仰を守るために、いきなり暴力を行使せよといっているわけではなく、文章や言葉で対峙せよともといっているわけです。また、信仰を守る「防衛ジハード」とともに、イスラームの教えを広める「拡大ジハード」により、イスラーム教は民族や地域を越えて拡がりました。7世紀中頃には、シリアのダマスクスを都とし、中央アジアから北アフリカ、ヨーロッパのイベリア半島にも及ぶウマイヤ朝が誕生します。これは、カリフ(イスラーム教の開祖である預言者ムハンマドを代理する者)位を世襲するウマイヤ家による最初のイスラーム王朝です。しかし、アラブ優遇政策であったことに不満が高まり、イスラーム教徒は平等であることを掲げるアッバース家がウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を興します。このアッバース朝は、ほぼウマイヤ朝と同じ広大な領域を統治しましたが、次第に弱体化したため、各地で民族や地域に基づく地方政権が成立しました。その後、中東ではオスマン帝国が広い版図を支配する有力な王朝になり、ヨーロッパ諸国を脅かすことになりました。こうした歴史は、例えば、東アジア全域で仏教に基づく統一国家を興すような歴史がない私たちとは、まったく違う歩みです。

 近代以降、ヨーロッパの植民地主義によってイスラーム世界は分割され、支配されました。たとえば、第一次世界大戦後、イギリスとフランスによる密約(サイクス・ピコ協定)によって、オスマン帝国の領土は分割されました。中東やイスラーム世界は欧州の大国の横暴な政策の犠牲者であったことがわかると思います。ISなどの過激派が「失地」回復のためのジハードを主張する背景には、こうした歴史も存在するのです。また、1979年にソ連がアフガニスタンへ軍事介入したことにより、イスラーム世界各地から義勇兵が集まったことは大きな分岐点となりました。つまり、イスラーム的ではないと考えられる為政者や祖国を支配する外国勢力など身近な「近い敵」を倒すジハードに加えて、イスラームの敵としてアフガニスタンに侵攻するソ連軍という遠隔地の敵に対するジハード、いわば「遠い敵」を倒すジハードが行われたのです。このことは、イスラエルを支援するアメリカを攻撃する、イスラームを迫害するヨーロッパの国々を標的にするといった、国際的なテロ活動へと進展していくのです。また、イスラームを守るためのジハードはイスラーム教徒全員に課された義務と過激派は主張することもあります。こうした呼びかけに応じた者が、過激派へのリクルートにもつながっていきます。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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