「令和」には、一人ひとりを尊重する社会への願いがある
さきに「梅花歌三十二首」の序文は漢文で書かれていると述べました。それを書いたのは、異論もありますが、この宴を催した大伴旅人だと思われます。
大宰府の長官に任じられた旅人は、優れた官人であると同時に、当時最高の文化人でもありました。
「令和」の出典は万葉集ではなく、漢籍の「文選」に収められている張衡の「帰田賦」であるという指摘があります。確かに、帰田賦には「仲春令月 時和気清」という一節があります。
文選は、当時の日本の文化人にとっては必読の書であり、官吏登用試験にも課されていたので、もちろん、旅人も読んでいたでしょう。
むしろ、文選の知識があるからこそ、その一節を引用して、その文脈とは違った展開をするという、当時の優れた文化人が行うテクニックを使うことができたと思います。
旅人は、「初春令月 気淑風和」と、宴席の様子を述べています。梅の宴が行われている初春の清々しい情景を詠んでいるわけです。
帰田賦の張衡も同じように仲春の情景を詠んでいるのですが、この後に続くのは、俗世間での栄達が果たせず半ば絶望し、職を辞して、田舎に引っ込むという内容です。
この文脈を考えれば、新元号の出典は万葉集であって、文選ではありえないと言えるでしょう。
元号の文字には、新しい時代に対する期待や願いが込められます。漢籍の「易経」から引用された「明治」の由来は、明に向かって治めるということですし、同じく「易経」から引用された「大正」の由来は、大いに正しき道を行くということです。「昭和」にも「平成」にも、そうした由来が込められています。
では、「令和」にはどういう意味があるのか。出典の「初春令月 気淑風和」で言えば、「令」は「よい」、「美しい」という意味で、「和」は「うららか」という意味です。
つまり、これだけでは、美しくうららかという意味合いでしかなく、それ以前の元号にあった、時代に対する大きな願いに欠けているように感じられます。
しかし、その序文に続く「梅花歌三十二首」が、一人ひとりが庭園の梅を自由に捉えた歌であることを知ると、変わってくるのです。
つまり、一人ひとりが大事にされる、一人ひとりが自由にものが言える、そういう時代であって欲しい、そういう時代を創っていきたい、という願いが、令和には込められているように思います。
「梅花歌三十二首」には、個々の表現が尊重された結果としての多様性が息づいている、と述べました。そのようなあり方こそ、これからの時代にふさわしいと考えて、「万葉集」を出典とした、と私は解釈します。
また、それは、冒頭に述べたように、元号が文化として独自の地位を確立している現代日本にふさわしい出典のあり方を模索した結果、とみることも可能だと思うのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。