多様性に富んでいる宴歌「梅花歌三十二首」
「梅花歌三十二首」とは、当時、大宰府の長官であった大伴旅人が邸宅に官僚仲間を招いて宴を催し、各人が梅を愛でながら詠んだ歌です。三十二首の歌が詠まれる宴とは非常に規模が大きく、万葉集でも他に例がありません。
新元号がその序文から採用されたというところに、実は、意味があると私は解釈しています。
まず、梅の花は現代ではポピュラーな花ですが、当時は、大陸から伝えられてまだ間もない頃で、珍しい外来種でした。その梅が植えられていて、しかも、そこは大陸の窓口となっている大宰府となると、とてもハイカラな舞台です。
そこで催された宴に招かれた客たちが、思い思いに梅の花を詠みます。梅と鶯の取り合わせがあったり、柳や竹なども取り合わせて詠まれています。
本当に、一人ひとりがとても自由な捉え方、異なる観点で梅の花を詠んでいて、今日的な言い方をすれば、多様性に富んでいる宴歌なのです。
万葉集は、天皇から農民までの歌を集めた和歌集と言われますが、すべての歌が本当に上下の差がなく扱われているかというと、そういうわけでもありません。
東国の庶民の生活に密着した内容が詠まれている、東歌というものがあります。実際に庶民の声を反映した歌もありますが、多くは、中央の貴族の目線で東国を捉えたものです。
例えば、防人の歌の中に、「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯(しこのみたて)と出で立つわれは」という有名な歌があります。天皇の盾となって戦うことを宣言する勇ましい歌ですが、言ってみれば、中央の威光が庶民にまで行き渡っていることを表す歌です。
九州の警備のために東国から差し向けられた農民たちは、引率の役人を介して、こういう歌や家族との別れの歌などを詠んでいるのです。
つまりは、中央の役人の目で捉えた東国像を東国の人たちが詠んでいるのであり、そういう歌を万葉集の中に取り上げることが、古代宮廷社会の中で大きな意味をもっていた、ということだったと思います。
そうした万葉集の中で「梅花歌三十二首」を詠んでいるのは、みな役人たちではありますが、身分に多少の上下はあっても、表現の自由を謳歌しながら良いハーモニーを生んでいます。
つまり、こういう歌を詠めと促された表現ではなく、個々の表現が尊重された結果としての多様性が息づいているのです。
その序文が、新元号の出典となったことに大きな意味があると、私は考えます。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。