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2018.05.30

スポーツで養うのは従順さ? 主体性?

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スポーツが育む人間像を問い直すべきとき

 いま、私たちが行っているスポーツ競技の多くは、近代と呼ばれる時代にイギリスで形づくられました。なぜ、イギリスでその時代にスポーツの形成が進んだかというと、リーダーを育てるためです。イギリスが世界中に植民地を広げていった時代、その植民地を統治するリーダー層を育成するために、自主性や自律性が培われるスポーツは最適と考えられたのです。実際にリーダーを輩出するパブリックスクールと呼ばれるエリート校で、スポーツに力を入れた教育が行われていました。ところが、スポーツには両極端な面があります。リーダーの資質を育むことができる一方で、指示に逆らわず、黙々と着実に遂行する、いわば組織の歯車をつくり上げる手段ともなるのです。例えば、実は大学の体育会出身者の就職率は悪くありません。それは、体力があり、上司の指示に文句を言わずに働き、ある程度の結果を出す人材を求める企業があるからです。つまり日本では、スポーツの二面性のうち、後者のような人材を育てているのかもしれません。指導者の方たちのお話を伺うと、だれもが良い人間を育てたいとおっしゃいますが、もしかするとその良い人間とは、単に指導者の言うことを素直に聞き、着実にこなす人間のことなのかもしれないのです。しかし、いま日本のスポーツ界が考え直さなくてはならないのは、まさにスポーツが育てるこの人間像です。その際には、将来の日本社会が求める人間像を見据える必要があります。

 2020年の東京オリンピックを間近にして、レガシーという言葉が盛んに使われていますが、レガシーを競技場などに求めている時代ではありません。東京で開催する2回目のオリンピックは、成熟した社会や成熟したスポーツ制度というものを後世に残すべきです。その意味で、いまのスポーツ界の社会的構造を改革していくとともに、スポーツが育む人間像を問い直し、自主性や自律性を伸ばす育成に力を注いでいくべきだと考えます。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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