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2025.06.26

自分とは無関係だと思い込んでいる「宗教」、はたして本当に?

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人生に「意味」はない?

 生きているといろいろなことがあって、自分が生きている意味がわからなくなるということもあります。ふとそんな気がしたというだけで済むこともありますが、深刻な場合もあります。たとえば、「夢が破れた」と言われるような場合、あるいは生き甲斐にしていたものを失ってしまった場合などは、なかなか立ち直れません。

 しかし、それだけではありません。たとえある程度順調に生きていたとしても、自分がいずれ死ぬことを意識するとき、私たちは、自分の人生に意味はあるのかということを、あらためて考えざるを得なくなります。いずれ死ぬのであれば、何をしたとしても、それに意味はないのではないか、人生は、結局はヒマつぶしのようなものではないか、と。

 そういう思いから私たちを救ってくれるのは、多くの場合、他者の存在です。たとえ自分の人生は思い通りにいかず、苦しいものであったとしても、それが人の役に立つと思えれば、私たちは、それを受け入れることができます。家族のためにがんばるとか、次世代のために苦労を引き受けるとか、社会の幸福のために献身するとか、です。

 このような態度は一見立派に思えますが、そこには危険なところもあります。たとえば「お国のために身を捧げる」といったことが、その延長線上に考えられるからです。しかし、「お国のため」は、どこが危険なのでしょうか。

 戦時中の「お国のため」というのは、外から押し付けられた考えでした。自分でよく考えてということではありませんでした。そこが危険だと思います。家族のためや、社会のためでも同じことです。自分で納得しないままで、他者のために何かをするというのは、他者に隷属するということです。あるいは、自分の人生を、他者の手段にしてしまうことです。自分で考える時間を与えられず、そういう考えに疑問をもたないということがよくあるのですが、そういう場合は、より危険です。

 このように考えてみると、人生の意味を見失いそうになっていた私たちを救ってくれるかに見えた「他者のため」という意味も、それだけでは確かなものではないということがわかります。そして、私たちはやはり自分で納得できる人生の意味を見つけなければならないのだということが、あらためて明らかになります。しかし、私たちのそもそもの問題は、自分で納得できる人生の意味が見つからないということでした。こうして、問題はふりだしに戻ります。

 単にふりだしに戻るだけではありません。以前には、どこかに自分の人生の意味が見出せるかもしれないという希望がありましたが、今やそれはありません。自分の人生に意味を見出すことはできないということがはっきり認識されています。この認識は、私たちを絶望させます。しかし、この絶望的認識は、人生に意味を求めること自身に問題はないのかということを反省するきっかけになります。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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