「民藝運動」に見る、自分らしい在り方
21世紀は、無数の小さな矢印の時代。そんな時代における自立や新たな連携のあり方を考える上で、最近私が注目しているのは、昭和の初期に始まった「民藝運動」です。指導者である柳宗悦が光をあてようとしたのは、まさに名も無きままに忘れられつつあった、無数のものたちでした。
柳宗悦は、機械生産される製品が社会のトレンドとなっていく中で、そのトレンドからこぼれ落ちた、いわゆる手仕事の中に次世代の社会を考えるヒントを得ようとした人でした。柳はこうした手仕事を行う職人たちが「貧しい」ことを強調します。貧しさは、トレンドからの疎外として憂うべきものではありますが、じつは、ポジティブに評価されるべき状況でもあると、彼は考えました。貧しさがあればこそ美しいものが生まれてきた、と。柳の言う「貧しさ」とは、生きていくことに対する切実さという気がします。職人たちの、必死に生きていかざるを得ない生活実感というか、けなげさ。一つ一つは小さなそのいとなみを正しく受けとめる社会像を追究したのが民藝運動でした。
しかも、柳が大切にしていたのは、職人の手仕事による物の美しさのことだけではなく、いま目の前にある物との出会いを大事にするということでもありました。物と対峙している自分の振るまい方において、より自分らしくならなくては見えないものが在る、ということです。例えば、いま手にしている茶碗が、社会から評価されているものだから良い茶碗だと思うのではなく、その茶碗が良いか悪いか決めるのは、自分自身ということです。つまり、物と対峙することによって考え直そうとしているのは、自分の側のこと。社会の評価やトレンドにもブレない、自分らしい在り方についてなのです。しかも、これは一人の問題だけでなく、物との出会い方を自分本位で真摯に見出していく姿勢を積み重ねていくこと、その際に何よりもまず他者の切実さに思いを寄せること、そうした姿勢の人が増えていくことが、社会全体を良くする方向につながっていくのだ、という信念が柳にはありました。現代では大量の情報がどんどん入ってきてしまう時代でありながら、他者の切実さをなかなか共感し得ない私たちにとって、民藝運動は、多くの手がかりを与えてくれるように思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。