
広告は、わたしたちにとって、製品情報を伝えてくれる有益な存在でしょうか。いいえ、インターネットの興隆と新型コロナウイルスの災禍が特徴づける現環境下にあって、広告は、テレビや新聞雑誌と共に凋落し、製品購買を説得しようと近づいてくる招かれざる存在として位置づけられる傾向にあるようです。このニューノーマル時代、私たちを幸せにする広告作りはいかに可能か考えてみましょう。
動画コンテンツの見返りという広告感
定額動画配信サービスのNetflixは、日本における有料会員数を、コロナ前の300万人から約1年で200万人増の500万人に伸ばしました。動画コンテンツの高質性や、外出自粛に伴う巣ごもり特需が、その主因かと思われますが、ここでは、原因の探究ではなく、逆に、結果を考えてみましょう。Netflix、あるいは、Amazon Prime Videoやその他の動画配信サービスの普及の結果、日本人の「広告感」が変化しつつあるということについてです。
広告は、実は、大切な役割を果たしますが、日本人にはなかなか解ってもらえません。150年前に日本が近代化を果たした頃、こんなことがありました。新聞に記事だけでなく広告が掲載されているのは何事か、お金を払って新聞を買っているのに、見たくもない広告が掲載されているのは不快だ、というのです。
福澤諭吉は、そんな市民に対して『時事新報』に社説を寄稿して、誤解を解こうと試みています。いわく、新聞上の広告を見た大勢の中の何人かが、広告対象製品に興味を抱いて買ってくれるから、企業は広告を出稿するわけで、新聞社は企業から得た出稿料を元手に取材や執筆を行うので、新聞購読料は安価で済むといいます。つまり、広告には、一部の市民しか望まない製品情報を提供する機能だけでなく、多くの市民が望む新聞コンテンツの提供を支える機能があると説いたのです。
時代は流れても原理は同じで、広告視聴という些細な手間の見返りとして、市民は面白いテレビ番組を無料で視聴することができる仕組みです。このビジネスモデルは、やがて日本人に受け入れられ、つい最近まで、伝説的な高視聴率を誇るテレビ番組が生まれ、そのついでに視聴されるテレビCMの中にも、これもまた伝説となった名作CMが生まれました。
しかし…です。今や、有料であっても、市民は喜んで動画配信サービスを受け入れています。それは圧倒的に豊富な動画コンテンツに加えて、自分で好きなコンテンツを好きな時に視聴できるという自己効力感によるものでしょう。多様性が叫ばれる時代にあって、テレビの限界、つまり、限定された数の動画コンテンツを、ある一時点でしか視聴することができず、それが嫌ならばビデオ録画の手間を掛ける必要があり、それでも見逃してしまうこともあるというのは、すこぶる不便で、許容できないものだと見なされるようになりました。
かくして、かつては広告視聴を動画コンテンツの見返りとして許容していた日本人も、コンテンツは有料で提供してもらってよいので、広告は視聴しない、という姿勢に変容していったのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。