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2026.07.16

何気ない言葉は、なぜ人を傷つけるのか?哲学から考える「見えにくい差別」

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悪意のなさでは済まされない、無知の責任

 マイクロアグレッションが厄介なのは、話し手の側に悪意がない点です。指摘されると、「そんなつもりではなかった」と返されることが少なくありません。ここには、悪意がなければ責任は問われない、という考え方があります。たしかに私たちは、「わざとしたことに対してのみ責任を問える」という見方に慣れています。しかし、マイクロアグレッションの問題は、その枠組みだけでは捉えきれません。

 私はこの点を、倫理学の観点から考えています。倫理学では、人は何に対して責任を問われるのか、その範囲がどこまで及ぶのかが問題になります。自分の言動がどのような意味や効果を持つのかを知らないままでいること、つまり無知に対しても責任は問えるのか。マイクロアグレッションをめぐって重要になるのは、この「無知への責任」という論点です。悪意がなかったとしても、自分の言葉がどのような前提のうえに成り立ち、相手にどのようなメッセージを与えているのかを知らないままでいることには、やはり一定の問題があるはずです。

 たとえば「日本語が上手ですね」という言葉も、その場だけを見れば、単なる感想に見えるかもしれません。しかし、その言葉が成り立つためには、誰が日本語の標準的な話し手なのか、誰がそれを評価する立場にいるのか、という前提がすでに置かれています。

 そこでは「日本人とはこういうものだ」という暗黙の基準が働いていることになります。このような前提をたどっていくと、日常の何気ない発言のなかにも、人種主義的な発想が入り込んでいることが見えてきます。

 ここで重要なのは、差別を個人の意識や内面の問題だけに還元しないことです。マイクロアグレッションは、話し手の偏見やステレオタイプに基づく問題として説明されることが少なくありません。もちろんそれも一面ではありますが、それだけでは不十分です。差別的な言動は、個人の内面から突然生まれるのではなく、歴史のなかで形成されてきた国民観や人種観、さらには法制度とも結びつきながら繰り返されます。

 マイクロアグレッションを防ぐために必要なのは、単に言葉づかいのマナーを学ぶことではありません。なぜその言葉が出てくるのか、何が当たり前の前提として置かれているのかを問い直すことです。哲学は、そうした問題を根本から考えるための手がかりになります。悪意があるかないかという単純な二分法では見えない問題を、責任とは何か、差別とは何かというところから考え直すことができるのです。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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