本質を問う哲学が、社会を読み解く力になる
では、そうした問い直しを担う哲学とは、どのような学問なのでしょうか。哲学というと、現実の社会から離れた抽象的な問いを扱う学問だと思われることがあります。たしかに哲学は、「差別とは何か」「何に対して責任を問えるのか」といった、すぐには答えの出ない問いを扱います。
しかし私は、そうした問いは抽象的というより、本質的な問いだと思っています。マイクロアグレッションについて本気で考えたことがある人なら、なぜそれが差別と言えるのか、悪意がないのに責任を問えるのか、といった疑問に突き当たるはずです。哲学は、そうした問いを曖昧なままにせず、言葉にし、整理し、考え抜いていく営みです。
実際、私がマイクロアグレッションについて書いてきた論文も、哲学の専門誌だけに向けたものではありません。法学や社会学のジャーナルにも発表してきました。差別をめぐる議論では、そうした分野と問題意識を共有しながら考える必要があると感じています。
差別は法の問題でもあり、社会の問題でもあり、心理の問題でもあります。そのなかで哲学は、個々の分野の知見を受け取りながら、「そもそも差別とは何か」「何が悪さの根拠なのか」といった問いを引き受けることができます。そこに、哲学の役割があるのだと思います。
このことは、マイクロアグレッションに限りません。近年、医療や看護の分野からも哲学に対する関心が寄せられていることを強く感じています。たとえば、患者と医療従事者の対話において、何が倫理的に望ましいのかを考えるとき、そこではやはり、相手をどう尊重するか、どのような関係が成り立っているのかといった問いが避けて通れません。
また、看護の現場では、人にとって空間とは何か、時間とは何かといった哲学的な問いが、患者の経験を理解するうえで重要になることがあります。病室が変わることを、傍から見れば単なる場所の移動と捉えてしまいがちですが、本人にとってはそうではないかもしれません。そうした経験の意味を考えるとき、哲学は現場の感度を支える学問にもなりうるのです。
マイクロアグレッションの問題でも同じことが言えます。たとえば「日本語が上手ですね」という言葉一つを取っても、その場の印象だけで判断すれば、何が問題なのかわからないかもしれません。しかし、ヘイトスピーチとの違いは何か、そこにどのような前提があるのか、なぜ受け手はそれを差別として経験するのか、と問いを進めていくことで、見えてくるものがあります。
こうした問い方を身につけることは、単に差別について詳しくなるということではありません。物事をあっさりと言い切らず、一度立ち止まって、その前提や構造を考える態度を身につけることでもあります。
いまの社会には情報があふれていて、目立つ言葉やわかりやすい結論に飛びつきやすい状況があります。だからこそ、何が問題なのかを丁寧に考え、見えにくい前提を問い直す姿勢が重要になっているのではないでしょうか。日常の何気ない言葉に潜むものを精密に見つめることは、差別を減らすためだけではありません。社会をより注意深く、より深く理解するための手がかりにもなる。そうした立ち止まり方を支えるところに、哲学の役割があるのではないでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
