
日常の何気ない言葉が、相手を傷つけ、差別として働いてしまうことがあります。こうした見えにくい差別は、マイクロアグレッションと呼ばれます。問題になるのは、個人の悪意の有無だけではありません。言葉の前提や責任のあり方を、哲学の観点からたどります。
何気ない言葉は、なぜ人を傷つけるのか
「日本語が上手ですね」という言葉は、一見すると相手を褒めているようにも聞こえます。けれども、親の一人以上が外国にルーツを持ち、自身は日本で生まれ育ち、日本語を母語としている人が、見た目の違いから繰り返しそう言われるとしたら、その言葉は別の意味を帯びます。単なる感想ではなく、「あなたは標準的な日本人ではない」というメッセージを伝えてしまうからです。
人種やジェンダーなど、ある集団に属していることを理由に、日常のやりとりのなかで向けられるこうした差別的なメッセージは、マイクロアグレッションと呼ばれます。
悪意をもって露骨に相手を攻撃するヘイトスピーチとは異なり、マイクロアグレッションは、教室や職場、友人関係や恋人関係など、ごく身近な場面で生じます。話し手には、自分の言葉が相手を傷つけているという自覚がありません。だからこそ、この問題は見えにくく、指摘もしにくいのです。
私がとりわけ重視しているのは、「よそ者扱い」と呼ばれるタイプのマイクロアグレッションです。本来、ある言語が「上手ですね」という言葉は、外国語としてその言葉を学んでいる人に対して言われるものです。母語としてその言語を話しているネイティブスピーカーに対してそのように言うことはありません。それでも、アメリカで生まれ育ち英語を母語とするアジア系アメリカ人が「英語が上手ですね」と言われたり、親の一人以上が外国人である人が日本語のネイティブスピーカーであるのに「日本語が上手ですね」と言われたりするということが、頻繁に起こっています。
そうした言葉が出てくるのは、話し手の側に「典型的なアメリカ人」や「典型的な日本人」とはこのような人だ、という暗黙の前提があるからです。差別性は、言葉づかいの荒さにあるのではなく、その背後にある固定されたイメージのなかに潜んでいます。
ここで大きな問題になるのは、話し手と受け手の間に認識のギャップがあることです。話し手は「褒めたつもりだった」「ただ感想を述べただけだ」と捉えているかもしれません。しかし受け手の側は、これまで何度も繰り返されてきた定型的なフレーズとして聞いています。なので、その言葉を一回限りの個人の発言としてではなく、「あなたはここに属していない」という社会のメッセージとして受け取ることに無理はありません。
話し手は個人の発言のつもりでも、受け手はそこに、社会のなかで定着した見方や言葉の慣行を見ています。同じ表現であっても、意味の受け取られ方が大きくずれてしまうのは、そのためです。
さらに厄介なのは、こうした発言が指摘されたときに、「そんなのは気にしすぎだ」「悪気はなかった」といった反応が返ってきやすいことです。問題は、誰か一人の露骨な悪意にあるのではありません。むしろ、何気ない言葉のなかにどのような前提が含まれているのか、そしてなぜそれが日常のなかで繰り返されるのかというところにあります。マイクロアグレッションの難しさは、まさにこの見えにくさにあります。
悪意のなさでは済まされない、無知の責任
マイクロアグレッションが厄介なのは、話し手の側に悪意がない点です。指摘されると、「そんなつもりではなかった」と返されることが少なくありません。ここには、悪意がなければ責任は問われない、という考え方があります。たしかに私たちは、「わざとしたことに対してのみ責任を問える」という見方に慣れています。しかし、マイクロアグレッションの問題は、その枠組みだけでは捉えきれません。
私はこの点を、倫理学の観点から考えています。倫理学では、人は何に対して責任を問われるのか、その範囲がどこまで及ぶのかが問題になります。自分の言動がどのような意味や効果を持つのかを知らないままでいること、つまり無知に対しても責任は問えるのか。マイクロアグレッションをめぐって重要になるのは、この「無知への責任」という論点です。悪意がなかったとしても、自分の言葉がどのような前提のうえに成り立ち、相手にどのようなメッセージを与えているのかを知らないままでいることには、やはり一定の問題があるはずです。
たとえば「日本語が上手ですね」という言葉も、その場だけを見れば、単なる感想に見えるかもしれません。しかし、その言葉が成り立つためには、誰が日本語の標準的な話し手なのか、誰がそれを評価する立場にいるのか、という前提がすでに置かれています。
そこでは「日本人とはこういうものだ」という暗黙の基準が働いていることになります。このような前提をたどっていくと、日常の何気ない発言のなかにも、人種主義的な発想が入り込んでいることが見えてきます。
ここで重要なのは、差別を個人の意識や内面の問題だけに還元しないことです。マイクロアグレッションは、話し手の偏見やステレオタイプに基づく問題として説明されることが少なくありません。もちろんそれも一面ではありますが、それだけでは不十分です。差別的な言動は、個人の内面から突然生まれるのではなく、歴史のなかで形成されてきた国民観や人種観、さらには法制度とも結びつきながら繰り返されます。
マイクロアグレッションを防ぐために必要なのは、単に言葉づかいのマナーを学ぶことではありません。なぜその言葉が出てくるのか、何が当たり前の前提として置かれているのかを問い直すことです。哲学は、そうした問題を根本から考えるための手がかりになります。悪意があるかないかという単純な二分法では見えない問題を、責任とは何か、差別とは何かというところから考え直すことができるのです。
本質を問う哲学が、社会を読み解く力になる
では、そうした問い直しを担う哲学とは、どのような学問なのでしょうか。哲学というと、現実の社会から離れた抽象的な問いを扱う学問だと思われることがあります。たしかに哲学は、「差別とは何か」「何に対して責任を問えるのか」といった、すぐには答えの出ない問いを扱います。
しかし私は、そうした問いは抽象的というより、本質的な問いだと思っています。マイクロアグレッションについて本気で考えたことがある人なら、なぜそれが差別と言えるのか、悪意がないのに責任を問えるのか、といった疑問に突き当たるはずです。哲学は、そうした問いを曖昧なままにせず、言葉にし、整理し、考え抜いていく営みです。
実際、私がマイクロアグレッションについて書いてきた論文も、哲学の専門誌だけに向けたものではありません。法学のジャーナルにも発表してきました。差別をめぐる議論では、そうした分野と問題意識を共有しながら考える必要があると感じています。
差別は法の問題でもあり、社会の問題でもあり、心理の問題でもあります。そのなかで哲学は、個々の分野の知見を受け取りながら、「そもそも差別とは何か」「何が悪さの根拠なのか」といった問いを引き受けることができます。そこに、哲学の役割があるのだと思います。
このことは、マイクロアグレッションに限りません。近年、医療や看護の分野からも哲学に対する関心が寄せられていることを強く感じています。たとえば、患者と医療従事者の対話において、何が倫理的に望ましいのかを考えるとき、そこではやはり、相手をどう尊重するか、どのような関係が成り立っているのかといった問いが避けて通れません。
また、看護の現場では、人にとって空間とは何か、時間とは何かといった哲学的な問いが、患者の経験を理解するうえで重要になることがあります。病室が変わることを、傍から見れば単なる場所の移動と捉えてしまいがちですが、本人にとってはそうではないかもしれません。そうした経験の意味を考えるとき、哲学は現場の感度を支える学問にもなりうるのです。
マイクロアグレッションの問題でも同じことが言えます。たとえば「日本語が上手ですね」という言葉一つを取っても、その場の印象だけで判断すれば、何が問題なのかわからないかもしれません。しかし、ヘイトスピーチとの違いは何か、そこにどのような前提があるのか、なぜ受け手はそれを差別として経験するのか、と問いを進めていくことで、見えてくるものがあります。
こうした問い方を身につけることは、単に差別について詳しくなるということではありません。物事をあっさりと言い切らず、一度立ち止まって、その前提や構造を考える態度を身につけることでもあります。
いまの社会には情報があふれていて、目立つ言葉やわかりやすい結論に飛びつきやすい状況があります。だからこそ、何が問題なのかを丁寧に考え、見えにくい前提を問い直す姿勢が重要になっているのではないでしょうか。日常の何気ない言葉に潜むものを精密に見つめることは、差別を減らすためだけではありません。社会をより注意深く、より深く理解するための手がかりにもなる。そうした立ち止まり方を支えるところに、哲学の役割があるのではないでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
