歴史から「法制度は何のため、誰のため」を問う
「教育できない者の排除」という論理は、やがてナチ時代に入ると、犯罪者だけでなく精神疾患を持つ人々や社会的弱者の排除へと拡大し、人種主義的政策と結びついて制度化されていくことになります。ナチ体制の人種主義的イデオロギーと犯罪生物学は、ある意味で非常に相性がよく、「科学」という装いのもとで優生思想を正当化する強力な道具として機能したのです。
このような歴史的展開——当初、社会復帰を目指した制度が排除・隔離へと変質した歴史的プロセス——は、現代にも重要な示唆を与えると考えています。たとえば近年、再犯リスクを予測するアルゴリズムや電子的監視といったテクノロジーは、「科学的」「合理的」な装いのもとで、治安不安への有効な対策であるかのように語られています。しかしその一方で、対象者を細かく分類し、膨大なデータを蓄積しながら、監視の範囲と強度を拡張していく危険性も同時に持っています。
具体例としてよく挙げられるのが、性犯罪者に対する監視制度です。アメリカや韓国では仮釈放中や刑期を終えた者にGPS装置を装着させ、居場所をリアルタイムで把握する制度がすでに導入されています。日本でも同様の制度が検討課題として議論が続けられており、今後の刑事政策の推移を注視する必要があります。
社会の分断が進み、「危険な存在」や「社会問題の原因」を特定の集団に帰属させる言説が力を持つなかで、テクノロジーを用いた人物評価や人格把握は、ヴァイマル時代とは比較にならないほどの精度と範囲をもつでしょう。昨今のいわゆる「外国人問題」をめぐる議論も、特定の集団を潜在的なリスクとして可視化する文脈の延長線上に位置づけることができるかもしれません。
かつての教育刑が内包していた、受刑者の社会復帰を目指すリベラルな理念と、「改善できない」と判断された人々の排除を科学が後押しするという二面性は、ナチ体制ほど極端なかたちではないにせよ、現代社会にも確かに存在していると私には思われます。科学や技術が、人々を分類し、序列化し、社会から排除するための根拠として用いられるという構図は、ヴァイマル期の刑事司法がすでに一度辿った道でもあります。
私の研究の根底には、一見すると「人道的」に見える目的と「科学的な正しさ」が結びついたとき、それがいつ、どのようにして「排除を正当化する理由」へとすり替わるのか、という問いがあります。とりわけ危険なのは、政治的な文脈において権力者が「それは科学的に正当なのだから、批判の余地はない」と語るときです。その瞬間、科学は中立的な知の装置ではなく、特定のイデオロギーを正当化するための盾として機能し始めます。
現代の刑事政策もまた、「リスク診断」という技術を通じて「社会を良くする」という名目のもとで、人々を管理する仕組みの強化へと変容しうる両義性を持っています。だからこそ私たちは、歴史を参照しながら、「この制度は何のために導入されるのか」「それは誰のための制度なのか」と問い続ける必要があるのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
