犯罪生物学という「科学」が正当化した排除
そもそも教育刑という発想は、19世紀後半に刑法の刷新を目指した「近代学派」という刑法改革集団によって理論的に主導されたものでした。19世紀のドイツ社会は、急激な工業化と都市化の進行によって大きく変貌し、富の偏在や物資不足に起因する貧困が深刻化しました。その結果、犯罪増加への不安が広がり、従来の刑罰観では対応しきれない状況が生まれていたのです。
こうした現実を前に「近代学派」は、刑罰を「犯罪から社会を防衛するための手段」として解釈し、「改善(教育)可能な者は改善し、改善(教育)不能な者は無害化する」というスローガンを唱えました。ヴァイマル期の刑法および行刑改革は、基本的にこの考え方を軸として形成されていきます。
この刑罰における教育を重視する方向性は、いくつかの帰結をもたらしました。まず挙げられるのは、「教育可能性」を「科学的に」診断する学問として、「犯罪生物学」が重用されるようになったことです。監獄では、「犯罪生物学」を修めた医師が受刑者に対して「犯罪生物学的診断」を実施し、「教育可能性」を判断しました。
犯罪生物学は、19世紀に成立した「犯罪学」の一分野として発展した、犯罪原因を社会環境だけでなく、人間の生物学的要因と結びつけて理解しようとする学問でした。もともとは、骨格や頭部の形状といった身体的特徴から「生まれつき犯罪を犯しやすい人間」すなわち「生来性犯罪者」の存在を提唱した犯罪人類学を基とし、こうした単純な身体的類型論を退けつつも、人間の生物学的な素因——遺伝や気質、人格の傾向——を重視する姿勢を引き継ぎました。この考え方に立てば、犯罪者が改善できるかどうかは、本人の努力や環境の変化以前に生物学的要因によって強く制約されることになります。
犯罪生物学による受刑者の診断では、身体測定と数十項目に及ぶ詳細な質問票に基づいた調査が実施されました。たとえばバイエルン州では、受刑者本人だけでなく、両親・兄弟姉妹・親戚に至るまで「年齢」「死因」「飲酒習慣」「犯罪歴」「学歴」「社会的行動」「精神的・心的素質」といった情報が収集・記録されました。これらを総合して医師がその受刑者の「社会的予後」を判断し、「改善可能」か「改善不能」かの判定を下すと規定されたのです。
もう一つの帰結は、この診断結果が受刑者の処遇を大きく左右する要素として制度化されたことです。「社会復帰」を行刑目的に掲げたヴァイマル期では、監獄内に「段階行刑制度」という新たな制度が導入され、すべての受刑者はまず第一段階に置かれましたが、診断において「改善可能」と認定されると、より自由度の高い段階へと進むことができました。第二段階では、集団房から単独室への移行が認められたり、監獄内での作業において一定の自律性が与えられたりしました。さらに第三段階に進むと、自室を装飾することが許可され、場合によっては監獄の外で労務作業に従事することも可能となりました。
他方、犯罪生物学を基盤とした監獄制度は、次第に、当初掲げられた「社会復帰」とは異なる方向へと傾いていきます。たとえばバイエルン州では、制度導入当初こそ「改善可能」と判断される受刑者の割合が「改善不能」を上回っていましたが、数年のうちにその比率は逆転し、1932年には6割以上の受刑者が「改善不能者」と分類されるに至りました。
また、州司法省の意向や省庁決議からは、当初は「教育できる者を社会に戻す」ことに重きを置いていた政策が、次第に「教育できない者を社会から排除する」方向へと重心を移していったことがわかります。その結果、教育刑は「改善不能」とされた人々を予防的に隔離する制度として機能していきました。そして、この排除と隔離の根拠となる「教育可能性」の診断は、犯罪生物学という「科学」に裏打ちされていたために強い説得力を持って受け止められたのです。
このようにヴァイマル期の監獄では、とりわけバイエルン州に見られたように、「改善可能者の改善、改善不能者の無害化」という近代学派の二つの路線のうち後者のみが強調され、抑圧的な行刑政策が形成されていきました。すでにヴァイマル体制後期の段階で、特定の存在を「反社会分子」として投獄するナチ体制に連なる排除的思考の萌芽が見てとれると私は考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
