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2025.10.02

障害者の人権を侵害した「優生保護法」が近年まで存在したのはなぜか

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積み重なった認識を覆し、あらゆる人に人権を保障することが世界的な課題

 それでは優生保護法が廃止されたことで障害者の社会への包摂は進展したのでしょうか。日本では、2021年に「障害者差別解消法」が改正され、2024年4月に事業者による障害のある人への「合理的配慮の提供」が義務化されました。障害のある人から「社会的なバリアを取り除いてほしい」という意思が示された場合には、負担が過重でない範囲で必要かつ合理的な対応をすることが義務づけられたのです。健常者中心の社会構造が障害者を排除してきたことへの反省から、今後もより包摂的な社会をめざす法制度の改革が必要です。

 この点で日本にヒントを提供してくれる法制度として、あらゆる人の包摂をめざす2006年の「障害者権利条約」の成立が挙げられます。それまでの法の世界では判断能力が十分でない人については代理人が意思決定することが当然とされてきたのに対し、障害者自身の意思決定をできる限り支援するために、代理決定ではなく障害者本人の意思決定支援を全面に打ち出していることが、この条約の画期的なところです。ベルギーやカナダのケベックなど、世界には障害者権利条約の精神に沿って、法改正を行っている国もあります。日本でも成年後見制度の改革などが望まれるところです。
 
 また研究者にも意識の変革が求められるのではないでしょうか。かつて優生保護法が憲法違反だと考えてきた憲法学者は、きわめて少数だったと考えられます。敗戦後、日本が民主主義国家として立ち直っていくなかで、憲法学者の多くは、主権者である国民をどう育てるかに注力してきました。日本国憲法の制定によって主権者が天皇ではなく国民になるにあたり、いかに社会のことを考え、物事を判断して、投票に行くような主権者にしていくかが最重要課題だと考えられたのだろうと思います。

 こうした意識を反映してか、表現の自由や政治参加に関する分野などは研究の蓄積が分厚い一方で、障害者等の人権には関心が向いてこなかったと言わざるを得ません。障害者は脇に置かれるという状況が、憲法の世界でも当たり前だったのです。

 同様に国民も意識を変化させる必要があるように思います。優生保護法を受け、60年代ごろから自治体等が障害児を産まないようにするキャンペーンを盛んに行ってきました。結婚を扱う書籍や雑誌などでも、医学博士のような肩書きの人が、“健康な子を産み、ちゃんとした教育を与え、社会に貢献できる子に育てることが親の務め”だと述べるような状況でした。

 同じ時期、国ぐるみで家族計画運動が推進され、産む子供の数を2~3人に抑えてしっかりと教育することが理想の家族像だという考えが日本にできあがってきます。障害がなくて健康で勉強ができるというあるべき人間像を、日本社会は行政も含めてつくってきたのです。

 年月をかけてすり込まれてきた、障害者を排除した理想の家族像を、我々も引き継いでいるのではないでしょうか。一例を挙げると、お腹の子どもに障害がないかを調べる新型出生前診断では、ダウン症かどうかなどが高い確率でわかります。検査をして子どもが障害児だとわかれば、フランスや多くの国では法的に中絶が認められています(胎児に障害があった場合に中絶を認める法の規定を胎児条項と言います)。日本で胎児条項は法制化されていませんが、実際には診断の結果、障害があることがわかると9割ほどのカップルが中絶を選ぶというデータがあります。だから本当に優生学的なものがなくなったかどうかと問われると、かなり疑問符がつくのが現実です。

 近代国家はもちろん、現代国家においても、個人は経済的にも精神的にも自立・自律し、理性的な存在であるべきという考えが常識化しています。日本における労働生産性に基づく能力主義からも、自立・自律していない障害者には、人権が保障されなくても仕方がない、という発想が見て取れます。長年積み重なった認識を覆し、障害者を含め、あらゆる人に人権を保障することが日本社会においても重要な課題です。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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