当事者が声を上げたノーマライゼーションの広がりにより価値観が逆転
日本の優生保護法は、「不良な子孫の出生を防止する」と規定されているように、“劣った者”の出生を抑制することを大きな目的の一つとしていました。その手段として、任意あるいは強制的に、不妊手術が行われるべきことを予定していた法律でした。
戦争に負け、満州などから多くの日本人が引き揚げ、日本は食糧難に陥ります。厳しい経済状況のなか、人口抑制のためにブラジルなどへの移民政策も進みます。人口政策の一環として、生まれてくる子どもを抑制するというのが、国の重要な課題だったのです。
海外では、たとえばドイツは戦前、盛んに優生政策を進めますが、ナチスの経験があったため、戦後は優生手術が実施されないようになります。一方、北欧やアメリカでは戦後も法制度が存続しました。戦争を経ても、優生学や優生手術は必要だというのが、先進諸国の一般的な認識だったといえます。
他方、たとえばデンマークでは戦後早々の1950年代、障害のある人も地域社会に参加しながら自立して生活を送る権利がある、というノーマライゼーションの理念が広がっていきます。これもまた、当事者の方々が「我々も社会の一員である」と主張し、権利を獲得する運動に力を入れられたことが大きなきっかけとなりました。
やがてノーマライゼーションの概念は世界的に広まり、国連は1971年に「精神薄弱者の権利宣言」、1975年「障害者の権利宣言」を採択。国際的に障害者の権利擁護する流れが拡大し、さまざまな国が優生政策を見直し始めます。さらには「完全参加と平等」をテーマに、1981年を「国際障害者年」に設定。1983年から1992年までを「国連・障害者の十年」と宣言し、各国が課題解決に取り組むことになりました。“そもそも障害者は生まれない方がいい”という法律や仕組みが良くないという、価値観の逆転が起こってきたのです。
日本でも1980年代に入る頃には不妊手術はほぼ行われておらず、優生保護法の社会的実効性は失われていたのですが、廃止への動きは盛んになりませんでした。しかし1994年にエジプトのカイロで開催された、国連の「国際人口開発会議」で、日本にはいまだに優生保護法が残っていることが話題に上り、強い批判を受けます。そしてその2年後には母体保護法への改組へと至りました。
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