物語の浸透によって生まれた平等思想
人はみんな平等、という概念が広まったのは、人類の歴史では本当に最近の話です。ひょっとすると今も達成されていないかもしれません。
例えば、日本でも、四民平等といわれるようになったのは明治以降ですし、本格的な民主主義が広まったのは戦後です。性や障がいの有無や国籍、人種、出身地などによる差別がいけないことと、多くの人が思うようになったのは本当にここ最近のことです。
その背景には、古くからキリスト教などによる平等の精神の教えがあったり、人は身分などに関わらず誰でも同じ身体をしている、という医学の知識が広まったことがあると思います。他方で温存されたままの差別が数多くあることも広く知られているでしょう。
しかし、大きいのは、人はみんな平等という考え方は良いこと、という物語が浸透したことだと思います。人々にとって非常にわかりやすい、力のある言葉で、人は生まれながらにして平等であると言った人たちがいるのです。
それを、人々が、ある意味、無意識に受け入れ始めたとき、それは、人類史上にかつてなかったような平等思想という社会制度の構築の根底ともなる物語として紡がれていったのです。
逆に言えば、世界には、平等を良しとする物語が生まれていない地域もたくさんあります。女性や幼い子や高齢者、障がい者などを差別する地域では、それを良いこととする物語が紡がれつづけているのです。
平等を基本にした日本に生まれた私たちは、平等が正しく、差別が絶対に悪と思いがちです。でも、それは、物語による先入観や思い込みでもありますし、何をどこまで平等にするのかという問題に向き合っていません。
スマホの契約の例で述べたように、人は千差万別で、スキルもひとりひとり異なります。ところが、平等を前提にすると、通常人をどのようなカテゴリに設定するかという問題になり、ある意味、その基準より能力が高い人の自由を制限することになってしまいます。
では、平等自体を諦めれば良いのかといえば、それも違います。それが一定のバイアス(偏見)をもとにした物語によって成り立っていることを常に自覚することが必要です。
実際、私たちは、良い悪いではなく、生まれてから成長する過程でバイアスを回避することは決してできないのです。生まれた社会にある物語から、生き方そのものを身につけていくのですから。
でも、その物語は絶対ではなく他の可能性もあったこと、また世界には別の物語もあることを知ることができます。それが大切なのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。