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2019.02.13

現代人が取り戻せず、潜伏キリシタンが250年間失わなかったもの

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江戸時代の禁教が現代にまで及ぼす影響

清水 有子  しかし、あらためて言いますが、江戸時代の潜伏キリシタンは、見つかれば処刑される危険がありました。それでも彼らは、信仰に自分の人生を委ね、必死で生きました。

 当時の人々に、信仰は個人の自由であるという明確な意識があったとは思えませんが、しかし、幕府の力ずくの宗教政策に対して拒否をした人々がいたことは確かです。この潜伏キリシタンの歴史が、現代の私たちに教えてくれることはとても大きいと思います。

 実は、発足したばかりの明治政府が、キリスト教を解禁するか否かについて、全国の藩主に諮問した記録が残っています。

 すると、キリスト教を邪教とする考え方が普及していて、これを安易に解禁すると、領内に不安と反発が広がり統治ができなくなる、という意見が多数を占めました。

 つまり、キリスト教の解禁は、社会の価値観をひっくり返すような大問題だったわけです。私たちは、これを150年前の不合理と笑えるでしょうか。

 いま、日本は、宗教をもたないという人が多い国です。仏教徒という人もいますが、多くの人にとっては、「葬式仏教」と揶揄されるほど、儀礼的なものです。

 キリスト教や仏教のみならず、とにかく宗教全般について、深く考えない、頼りたくない、というのが多くの人の思いだと思います。

 なぜ、日本には宗教意識の発展がないのか。それは、江戸時代の禁教の歴史の影響があると思います。

 キリスト教を邪教と思わせ、本来の宗教としてではなく、キリシタンの摘発目的や戸籍制度の一環として仏教を利用した江戸幕府の政策によって、当時の日本人にすり込まれた宗教観から、私たちは抜け出せていないと思います。私たちは、150年前とあまり変わっていないように思えます。

 このことは、宗教の問題にとどまらないかもしれません。私たちは、上から与えられたものに従ったり、与えられた枠組みの中で選択するということを、意識もないまま行っている国民になっていないでしょうか。

 そんな現代人は、江戸時代の潜伏キリシタンたちの目に、どう映るでしょうか。

>>英語版はこちら(English)

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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