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2025.12.04

“スマホ漬け”の時代こそ、「情報の栄養バランス」が大切

“スマホ漬け”の時代こそ、「情報の栄養バランス」が大切
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私たちは気づけば数時間もスマホを手にし、際限なく押し寄せる情報にさらされています。便利さの裏で「やめたいのにやめられない」という“スマホ依存”が広がるいま、新聞やテレビといった伝統メディアはどのような役割を果たしうるのでしょうか?

なぜ、スキマ時間にスマホをいじってしまうのか?

水野 剛也 昨今では学生に限らず、多くの人が日常生活のほんのわずかなスキマ時間に、スマートフォンを手に取り、小さな画面を凝視しています。明らかに中毒的な様相を呈しており、社会的にも看過できない問題になりつつあると感じます。

 私自身はこれまで一度も携帯電話やスマホを所有したことがありません。いまの時代には珍しい存在だと思いますが、不便を感じたことはありませんし、むしろ使わないことで得られているものが多いと考えています。

 私の研究テーマはジャーナリズム論ですが、数年前から「スマホとの向き合い方」についても学生たちと議論する授業を行っています。まず関連する文献を読んでもらい、そのうえで日常のスマホ利用について、自分がどのような影響を受けているかを考えてもらいます。

 スマホの長時間使用の弊害としては、運動不足、肥満、集中力の減退、視力の低下や首や肩の不調、内斜視への影響、脳の発達を阻害する可能性などが多数報告されており、SNS上での「いいね」の快感が依存を助長しているとの指摘もあります。私がこれらについて尋ねると、学生自身も実はスマホの悪影響を自覚しているのですが、それでも手放すことはできない。結局のところ、問題は「使いすぎだとは思っているが、やめようとしてもやめられない」という点に尽きるのです。

 たとえば、写真動画共有SNSであるインスタグラムに関する文献の中から、こんなエピソードを紹介しましょう。あるアメリカの高校生は「あなたにとってインスタグラムとは何ですか?」と問われ、「ハイスクールのカフェテリアのようなものだ」と答えていました。

 アメリカのカフェテリアは学校において欠かせない場であり、そこでは楽しいこともあれば嫌なことも起こります。友達が多く談笑している生徒を横目に、ひとりで居心地悪く食事をする生徒もいます。しかし、そもそもカフェテリアにいかなければ「自分は存在すらしない」と感じてしまうのです。たとえ不快であっても、また自分にとって魅力的でないと痛感していても、参加せざるを得ないのです。

 この喩えは非常に示唆的です。SNS上で友人の投稿を見聞きし、自分も発信しなければ「自分は高校生でなくなってしまう」という感覚に陥る。スマホを使うかどうかは本来自由であるはずなのに、友人関係や周囲からの圧力によって「使わざるを得ない」という状況が生まれています。その結果、心のどこかで窮屈さや居心地の悪さを抱えているのではないかと想像します。

 こうした現状を踏まえると、私たちは「スマホ中毒」を個人の問題として片付けるのではなく、社会全体でどのように向き合うべきかを考える必要があります。ジャーナリズムの視点からも、この問題はメディアのあり方や人々の情報環境そのものと深くつながっているからです。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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