
誰かが嘘をつくのを見たとき、差別の言葉を耳にしたとき、私たちはなぜ「おかしい」と感じるのでしょうか。それは、「倫理」が常に私たちの中に潜んでいるからでは?――近現代フランス哲学を専門とする研究者が、「他者」との関係や「問い」の力を通じて、現代における倫理の可能性を探ります。
この残酷な世界に倫理は存在するのか?
私は「善/悪、正/不正などの倫理的価値がどのように存在し、また私たちの倫理的判断のなかでどのように働いているか」ということを、主にフランス哲学・倫理学から研究しています。倫理の研究などというと、皆さんの中には、懐疑的な見方をされる方がいらっしゃるかもしれません。
たしかに、日本国内の外国人に対するヘイトスピーチや、ウクライナとロシアの戦争、イスラエルによるガザ攻撃などの情報に触れると、その酷さは筆舌に尽くしがたい。こうした状況を前にして、絶望的な気分になっている方もおられるでしょう。「世界で、あるいは日本国内で、こんなに残酷なことが起きているのに、人間に倫理なんて本当に存在するのだろうか」と。
しかし、私は「それでもやはり倫理は存在する」と考えています。「こんなに残酷なことが起きているのはおかしい」という判断のなかで倫理が働いていると思うからです。
日常生活の大半においては、或る事柄の善悪がシリアスな問題となることはほとんどありません。そのため、倫理の存在はあまり意識されません。
たとえば、カントは「嘘をつくこと」を道徳的な悪の典型として挙げますが、実際には、多くの人にとって、自分の利益だけを考えて嘘をつくような行為は、そもそも選択肢にすら入っていないのではないでしょうか。つまり、普段は何かが「善か悪か」ということは意識すらされていないのです(「相手を傷つけないように本当のことは言わないほうがいいかな……」と葛藤することなどはよくあるわけですが)。
しかし現実に、誰かが明らかに自己利益だけのために嘘をついている場面に直面すると、私たちは「なぜそんな嘘を?」と違和感を覚えます。同様に、ヘイトスピーチを見聞きしたときも、「なぜそんなひどいことをするのか」と感じるはずです。
こうした局面において、人間は「善/悪」の判断を意識的に行なっています。言い換えれば、そこでは倫理が顕在化しているのです。
つまり、倫理は日常の中に潜在的な秩序として存在していて、あるきっかけによって表に現れるというわけです。ですから、たとえ国内外であまりにひどいことが起きていたとしても、それは必ずしも「倫理は存在しない」ことを意味するわけではないと思います。
では、潜在していた倫理がどのようにして顕在化するのか? 私が大事だと考えるのは、「問う」ということです。「なぜそんなことをするのか」という問いが、潜在的な倫理の秩序を表に引き出すのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
