学びを加速させるアドバイス「答えの用意されていない問い」を解く
教授陣によるリレーコラム/学びを加速させるアドバイス【16】
学びを深めるうえで、私が最も重視しているのは、「問い」を立てること、そしてその問いを自分の言葉で語ることです。
これは決して簡単な作業ではありません。しかし、その行為を通じることで、自分がこれまで漠然と考えていたこと、あるいは無意識のうちに取り込んできた知識や経験が、初めてある方向性を持って組織化されていくのです。
これにより、思考は抽象的な情報の寄せ集めから、自分固有の問題意識へと姿を変えていきます。「自分は何に引っかかっているのか」「なぜこのことに関心を持っているのか」。それによって、「学び」は単なるインプットではなく、アウトプットに向けた能動的な営みへと変わっていくはずです。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、主著『差異と反復』の中で、問いと解の関係について非常に示唆的な議論を展開しています。
ドゥルーズによれば、問いが本当に創造的であるためには、それがあらかじめ答えとセットになっていてはいけない。つまり、「この問いには、この答えが返ってくるはずだ」と予期されたような問いでは、思考は設定された枠組みの中に閉じ込められてしまう、というのです。
ここで問題視されているのは、一種の教育的常識です。前もって与えられた問いはその解のみに関わるという考え方(信念)を、ドゥルーズは「小児的な先入見」であるとして退けています。
〈問題を出すのは先生であって、わたしたちの仕事はそれを解くことであり、この仕事の結果は、ひとつの強大な権威によって真あるいは偽という質が付与される、と考える先入見である。また、そうした信念は、露骨に、わたしたちをいつまでも子どもにしておこうとする、ひとつの社会的先入見である。よそからやって来た問題を解くようにといつまでもわたしたちに勧め、また、わたしたちに、解き方を知っていたなら勝利をものにしたのにと言って、慰めてくれたり気を紛らわせてくれたりする先入見なのである。〉(『差異と反復』財津理訳)
こうした先入見のもとでは、私たちは問いそのものの創造性を手放し、「答えのある問題」に従順に取り組むことだけを学ぶようになってしまう。つまり、問いは立て方によっては、どれだけ「正しい」解を出せたとしても、貧しいものでしかないのです。
しかし、望ましい問いの立て方は、まったく異質なレベルの答えが現れてしまうような、つまり、従来の枠組みや価値観に収まりきらない答えを引き寄せるような、そうした力を秘めています。
そのようにして立てられる問いこそが、思考の座標軸そのものを揺さぶり、新たな「学び」の地平を切り拓いていくのだと、私もまた思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
