「事実認識」のみでは倫理的判断はできない
自己理解の文脈を離れて、事柄の善し悪しの判断として倫理を問題にするとき、「客観性」と「実践性」が重要になります。「善悪などの倫理的価値は本当に存在するのか」、「そもそも倫理的な判断を下すときに私たちは何をしているのか」というように、倫理の前提を根本から問う哲学的探究は「メタ倫理学」と呼ばれます。倫理的判断の「客観性」や「実践性」を考えるとき、「メタ倫理学」は様々なヒントを与えてくれます。
たとえば、「Xは悪い、道徳的に間違っている」と判断する場合、それが単に「自分がそう思っているから」では説得力はありません。むしろ、それが事柄として真実なのであり、したがって、他の人にとっても真実であるはずだ、という前提が必要です。そこで前提されているのが「客観性」にあたります。
さらに、現に行われているXを悪いと判断するのであれば、私たちはそれをやめさせたい、防ぎたいと願います。つまり判断は世界を変える行動と結びついている。この判断と行動の結びつきが「実践性」です。
では、倫理的判断はどのように形成されるのか。私は、そこには「事実認識」と「感情・欲求」という二つの要素が関わっていると考えます。
たとえば、ヘイトスピーチの問題を例にあげると、現状やその背景には何があるのか、外国人がどのような論理で攻撃されているのか、といったことを知ることは、判断の前提となる事実認識にあたります。この認識を欠いた判断には、「客観性」を期待することはできません。
しかし、事実だけで倫理的判断が成り立つわけではありません。私たちが「これは許せない」と感じたり、「なんとかしたい」と思ったりする背景には、必ず感情や欲求が働いています。価値判断が感情・欲求と不可分であるからこそ、判断は「実践性」を持つのです。
感情や欲求が、正確な事実認識と連動するときに、はじめて倫理的判断は妥当なものになります。
このような分析は、自分と異なる意見を持つ人がいたときに、その違いが何に由来するのかを見定めるのに役立ちます。事実認識が違っているのか。こちらが気づかない感情や欲求に動機づけられているのか。そこから考えていくわけです。
もっとも、相手の感情や欲求をすべて肯定する必要はありません。「それは筋が通らない」と評価することも可能です。そして、そのときには「『筋が通らない』という判断は、どのような根拠に基づいているのか」と問いを重ねる必要も出てきます。
たとえば、差別的な言葉を発する人にも、何らかの「理由」があるかもしれません。「なぜそんなことを言うのか?」と尋ねて、答える人もいれば、「理由などない」と言う人もいるでしょう。それでも、多くの場合、何らかの説明は返ってくるはずです。
そして、ヘイトスピーチに反対する側にも、「なぜそれがおかしいと思うのか」という理由があります。であれば、互いにその理由を問い合うことができるはずです。私は、この「問い合い」そのものが、倫理の社会的実践だと考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
