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2025.11.27

この世界に、まだ倫理はあるのか?――哲学者たちの思索を手がかりに考える

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「反省」を通じて明らかになるもの

 私は倫理に関わる問題を考えるとき、ジャン・ナベール、エマニュエル・レヴィナス、ポール・リクールといった、フランスの哲学者たちの思想をよく参考にします。

 この中で最も広く知られているのはレヴィナスでしょう。「他者の哲学」で有名なレヴィナスは、「他者との対面の関係において生じる責任が倫理の基礎である」と考えました。

 「顔を持った他者」との個別的な関係や個々の経験に根ざして倫理を考えていくという姿勢は、レヴィナスだけでなく、ナベールにも共通するものです。私自身も、倫理を考える際にはこうした個別的な関係を重視しています。

 ナベールとリクールの思想の特徴は、自分自身の経験の意味を問い直す営みである「反省」と、この「反省」との結びつきにおいて自己理解を考えるところにあります。

「反省」というと、日本語では「自分の言動を悔い改める」というニュアンスがありますが、フランス語のréflexionは「熟考する」「考え直す」といった意味で、もともとは倫理的な意味を含んでいません。しかし、ナベールは、個人が自分の過去の行動や経験を捉え直す営みに道徳的な意味を見出し、この営みを「反省」と呼びました。

「反省」を通じ、「あれはよくなかったな」と考え直すことで、逆に「では現在の自分は何をすべきだと考えているのか」が見えてくる。つまり、自分が本当に何を望んでいるのかということが明らかになる、というわけです。

 ナベールは、反省の対象として過ちや孤独といったネガティブな経験を挙げるのですが、そうした経験を振り返ることで、個人は、どのような行為が自分の良心に引っかかるのか、どのような人間関係に行き詰まりを感じるのかをまず自覚します。そして、自分はそうした行為をなしてしまう者である、あるいはそうした人間関係に居着いてしまう者であるという事実を受け入れつつ、しかし、少なくとも今はそれらを良しとせず別のあり方を望んでいる者として、自己を理解する。これが、「反省を通じての自己理解」なのです。自己のアイデンティティは、過去と現在を総合する仕方でそのつど作り直されるわけです。

 また、リクールのいう「自己の解釈学」は、こうした自己理解のダイナミズムについて多くを教えてくれます。

 そもそも、私たちが何かの行動について「これでよかったのか?」と問うとき、それは、すでに世界が自明なものでなくなっている瞬間であると言えるでしょう。

 あらかじめ全てが明瞭になっている世界の中では、そうした「問い」は生まれません。「問い」が生じるのは、「他者」と出会い、自分にとっての当たり前が揺さぶられたときなのです。つまり、反省を起動するのは「他者」なのです。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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