「人それぞれ」ではない倫理を求めて
こうした観点から考えると、ヘイトスピーチへの対処法として、まずはそこにある「対立」がどういう種類のものなのかを分析することが必要だと思います。事実認識の違いなのか、感情のぶつかり合いなのかを整理するだけでも、事象に対する理解が深まります。そして、この事象の理解というものが、差別を抑制し、やがてなくしていくための一つの筋道になるのではないでしょうか。
もちろん、「差別する人間の言葉など聞く価値はない」とする立場もありますし、それはそれで一定以上の説得力はあると思います。たとえば、この問題を一種の政治的な正しさの観点から捉えるならば、ヘイトスピーカーに対抗する抗議活動(カウンター)のほうが「正しい」と見なされるのは当然でしょう。
しかし、ヘイトスピーチを倫理の問題、あるいは倫理に関わる重大な事象として捉えるならば、「実践性」に関して別の視点が必要になると思われます。
差別はおかしいと考えてはいても、誰もがカウンターのようなインパクトのある活動に参加できるわけではありません。だからと言ってそのことは、主張に実践が伴わないことを意味しません。判断の「実践性」は多様でありうるからです。
たとえば、身近な人たちとの会話で差別問題を話題にすることや、SNSで自分の意見を発信することは、そこでの発言自体が世界に働きかける一つのやり方です。声なき声を一つの大きな力へとまとめ上げていくのが政治の役割だとすれば、個々人が各々の場所で声を発することは倫理の営みと言えます。「やっぱり差別はおかしい」と言葉を交わし合うことには、大きな意味があります。
ただしその大前提として、私たちが、ヘイトスピーチを自分にとっても無縁ではない社会的問題として受け止める必要があります。
ところが、人間は、害を被った人々に対する無関心へと自らを誘導する傾向を持っています。ナベールは、こうした傾向に導かれて各人の意識が被害者を自分から遠ざける働きが「根源的な悪」である、と論じました。他者の苦しみに対する無関心こそが抜き去りがたい悪であるという考え方には、ハッとさせられるものがないでしょうか。
現代では「倫理なんてそもそも存在しないんじゃないか」「結局は人それぞれでしょ」と考える方が多いように思えます。
そのため、事柄の善し悪しをはっきりと主張することを忌避する空気が蔓延し、「正義の暴走」などという言葉も用いられたりします。
しかし、繰り返しになりますが、実際に倫理は存在するし、「人それぞれ」でもない。
確かに、私たちは独断に陥る危険と常に隣り合わせですが、「自分は重要な事実を見落としているかもしれない」という思いさえ心にとどめておくなら、他者からの批判に敏感に反応し、「暴走」にストップをかけることは可能です。
自らの倫理的判断を最優先で支持しながらも、より正しい別の判断の可能性を排除しないという「中腰」の姿勢が大切なのです。
倫理は客観的であり、十分に多くの人の間で共有できるはずだという信念のもと、私は「倫理とは何か」という問題を考え続けていきたいと思っています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
