未来を予見する者としての藝術家
藝術家は予言者のような側面を持つ人々であると考えられています。意識する、しないにかかわらず、藝術に携わる人々は何らかの過剰な感性を持っているがゆえに、社会に同調できず、強烈な違和やプレッシャー、生きにくさを感じているものです。炭鉱のカナリアのように、彼らは他の人ならば看過するようなセンシェントな変化に気付き、それを作品世界に描写します。
人間が人間をどのようにとらえるのか。ものの見方の変化が、最初に現れるのが藝術の領域です。音楽でも美術でも文学でも、おそらくは人間観や世界観が変わる変動期を発見することができます。
社会がこれからどこへ向かうか、人々の心がどこに向いているか。文学をはじめとして藝術は、時代を少しだけ先取りして映す鏡のようなものだといえます。
では、今の文学に現れつつある、来たるべき変化とは何でしょうか。
折れる「心」、分割される「私」
近年「若者が閉じている」「自分の半径数メートルの世界にしか興味がない」と言われています。統計的には決してそうではないという指摘もありますが、私自身は、今の若い人が極端に内向きになっている傾向を強く感じています。
「心が折れる」という表現があります。この表現が人口に膾炙したのは90年代以降のことですが、それはこの「折れる」というイメージが人々の感性にそぐうものでもあったからでしょう。
以前は、「心」は丸いボールのようなイメージがありました。「へこむ」ことや「傷つく」こと、「つぶれる」ことはあっても、「折れる」と表現されることはありませんでした。弾力があり、自己修復ができるものでした。
それが今では、細くて何本もある「心」のイメージが一般的になっている印象があります。それらの「心」は比較的簡単に「折れ」てしまう脆さをもっているが、代わりに何本ものスペアがある。
1970年代生まれのクレバーな作家である平野啓一郎氏は、「個人(in-dividual)」から「分人(dividual)へ」と言っています。私たちは、分割不可能(in=不可能+dividual=分割)な個人ではなく、所属するそれぞれのコミュニティごとのペルソナである「分人」のネットワークである。ただ一つの「自分」など存在せず、対人関係ごとに違うそれぞれの「自分」たちが本当の「自分」である、というわけです。これは今日、非常に説得力を持っているようにも思われます。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。