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2026.03.05

ホームグロウン・ローンオフェンダー時代のテロとどう向き合うか

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目指すべきは「ゼロ・テロ」か「テロのもたらすリスクのマネージメント」か?

 ホームグロウン・ローンオフェンダー型のテロは、従来のテロ対策の枠組みでは対応が難しいとされています。国境を越えて侵入するわけではないため、入国審査等で食い止めることはできません。また、個人で活動することから組織的な資金の流れや通信の痕跡も乏しく、金融取引の監視や通信傍受といった手段では事前に察知することが困難です。

 さらに、かつての組織型テロの時代には、指導者層を逮捕・交渉して組織を瓦解させるという対処が一定の効果を上げていたと考えられます。しかし現在では、個人単位で行動する犯行が多く、そうした「トップダウンの無力化」は困難となっています。結果として、大規模テロの頻度や被害は減っているにもかかわらず、テロ行為を「完全に防ぐこと」はむしろ難しくなっていると考えられます。

 たとえるなら、学力テスト全体の平均点は上がったものの、一部の設問だけが極端に難しくなり、満点を取る人がほとんどいなくなった――そんな状態と言えるでしょう。

 そもそも、テロ対策の目標あるいは「ゴール」をどこに置くのかという根本的な問いもあります。一つの考え方は、テロ対策の目標を「すべてのテロを予見・防止し、被害をゼロにする」ことに設定する立場です。言わば「ゼロ・テロ」あるいは「ゼロ・リスク」のアプローチとも言い得ます。こうした考え方に立つ場合、政策目標の達成の手法としては、治安機関の権限の強化が考えられます。たとえば、通信傍受や仮装身分捜査などの権限の強化です。(この場合、併せて、安全と人権のバランスを取るため、治安機関に対する民主的統制の在り方も課題となり得るかもしれません。)

 もう一つの考え方は、テロ対策の目標を、「テロの完全防止」ではなく、「テロが社会全体にもたらす様々な損害を最小化する」ことに設定する考え方です。こうした立場の前提として、テロによる「損害」とは必ずしも直接的かつ物理的損害(テロ攻撃による死者数、負傷者数等)に限られるものではなく、テロによって拡散される恐怖が社会にもたらす様々な「不具合」まで広く含まれるとの考え方があります。たとえば、政府によるテロ対策がもたらし得る財政上の過剰支出や人権の侵害、さらには社会の分断等もこうした社会的な「損害」に含まれると考えられます。その上で、こうした社会全体が被る「不具合」全体の最小化こそがテロ対策の目的であると考えます。この考え方では、テロが発生しても社会が過剰に動揺せず、冷静に機能し続けること――すなわち社会的レジリエンス(耐性)を高めることが重要と考えられます。

 前者の立場が言わば「ゼロ・テロ」あるいは「ゼロ・リスク」を目指すアプローチと言い得るのに対し、後者の立場は「テロのもたらすリスクのマネージメント」を目指すアプローチと表現できるかもしれません。倫理学的には、前者が義務論な発想に基づくのに対し、後者は功利主義的な発想に基づくとも言えます。大まかに言うと、義務論とは、誰もが従うべき道徳や価値観に基づくことを善しとする考え方です。これに対し、功利主義とは、社会全体の効用の総和を最大化させること(最大多数の最大幸福の達成)を重視する考え方です。両者は、必ずしもどちらかが絶対的な唯一の「正解」な訳ではありません。前者のアプローチに対しては、社会全体の利益が損なわれかねないとの批判があり得ます。一方、後者のアプローチに対しては、一定の犠牲を許容しかねないことに対する倫理的な批判があり得ます。双方のアプローチの対比は、コロナ禍下における「ゼロ・コロナか、コロナとの共生か」の議論に似ているかもしれません。

 たとえば自治体への「爆破予告」がSNSなどで拡散された場合、かつては業務を全面停止する対応が一般的でした(「ゼロ・テロ」るいは「ゼロ・リスク」のアプローチ)。しかし、近年では警察と連携して警備を強化しつつ、情報を市民に公開し、通常通り業務を続ける自治体も表れています。これは「テロのもたらすリスクのマネージメント」の考え方を現実の行政対応に落とし込んでいる一例といえるかもしれません。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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