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樋口一葉の作品の舞台から物語を考える

 近年、〈地霊〉(ゲニウス・ロキ)という概念が知られるようになりましたが、〈地霊〉とは「土地の記憶」あるいは「土地と結びついた連想性」というような意味で、その土地が持つ文化的、歴史的、社会的な記憶のことであると建築史家の鈴木博之氏は述べています。

 それぞれの土地にはある種の雰囲気のようなものがありますが、最近よく耳にするパワースポットという言葉なども、こうした感覚から生まれていると思います。

 この〈地霊〉という概念から日本の近代文学を考えると、物語の構成やテーマの枠組みの多くが、その作品の舞台である土地というものと密接に繋がっていることがわかります。

 例えば、日本近代文学の作品の舞台の多くは東京ですが、戦前の東京の町は、社会の格差を如実にあらわす町でもありました。

 明治大学のリバティタワーは東京神田の駿河台にありますが、樋口一葉の『十三夜』(明治28年)は、駿河台の坂を下った下町に暮らす貧乏士族の娘・お関の物語です。お関は高級官吏の原田に見初められて結婚し、駿河台のお屋敷で暮らすようになります。

 ところが、お関は上流階級の家で様々ないじめや抑圧を受けて、そのつらさに我慢ができなくなり、今は上野新坂に引っ越した両親のもとに行き、原田と離婚したいと訴えます。

 しかし父に諭され、お関はしかたなく駿河台の屋敷に帰って行きます。しかしその途上、たまたま乗った人力車の車夫が、かつて思いを抱き合っていた幼なじみの録之助であったことがわかります。お関は自分が高級官吏の男と結婚したために、録之助が自暴自棄になり、落ちぶれた生活を送っていることを知ります。

 お関の実家があった下町と、高級官吏である原田の屋敷のある高台との差は、互いの身分の差として作品の中に描かれており、その差は主人公・お関とその家族にまで影響を与えます。また、お関の幼なじみである録之助は、神田小川町の煙草屋の息子として描かれていますが、商業圏であった小川町から木賃宿の多い浅草へと住処を移すことで、その境遇の変化が強調されています。このように、彼らの生きる場所の持つ意味を知ることによって、物語のリアリティがより鮮明になります。

 つまり、街や場所はただの背景ではなく、そこにある雰囲気や歴史が人物造形に影響を与えて、彼らの思いや心の動きをよりリアルに読者に伝えていきます。

 同じく樋口一葉の「たけくらべ」(明治28年~29年)は、無垢な少女と少年の淡い恋心を描いていますが、舞台は吉原界隈です。江戸時代から遊興の町であった吉原は、言わば大人の町です。そのような過酷な状況の中で生きていく女たちの町を舞台にして、一葉は、なぜ、無垢な少女を主人公にした物語を描いたのでしょうか。

 遊郭の女たちと少女の対比を際立たせることで、今はまだ無垢な少女もやがては遊郭の町の女になっていくという、少女の〈成長〉というものが持つ宿命的な切なさや悲しさを描きたかったのかもしれません。

 それはこの少女ひとりの運命ではなく、家業を継ぐという選択肢しかなく、それに抗うことができない少年たちの運命でもあり、吉原界隈に暮らす人たちが抱く切なさだとも言えます。

 この吉原界隈を文学散歩で訪れ、いまでも残る遊郭の時代の一端に触れると、あらためて、作品世界の雰囲気や、登場人物たちの心の動きが身近に感じられます。それもまた、時間を超えた〈地霊〉のなせるわざかもしれません。

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