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没後100年を迎えた夏目漱石のテキストを 「都市空間」の観点から読む

佐藤 義雄 佐藤 義雄 明治大学 名誉教授(元文学部教授)

都市空間には“境界”がある

 都市には様々な境界があります。坂や崖や川といった自然地形が境界となることもありますし、街道から江戸の出入り口となる場所に建てられた六地蔵や、高輪や四谷の大木戸のように、人の手によって人工的に造られた境界もあります。境界は、“こちら”と“あちら”の両方を抱え込んだ曖昧な空間ですが、そこで風景は一変します。人は、この境界を越えようとするとき、不安やためらい、戸惑い、苛立ちを覚えます。その逡巡や葛藤が、文学の生まれる場のひとつとなっていると、私は思っています。

 漱石の門下生の一人であった芥川龍之介の「羅生門」は、完璧といえるほど典型的な境界のテキストです。舞台設定の“門”からして都の境界記号そのものです。そこに下人が現われます。盗人にでもならなくては生きていけない“あちら”へ、下人は境界を越えるべきか否か葛藤し、逡巡します。生きていくためには境界を越えなくてはならないのは明白です。彼は、老婆の着物を剥ぐという行為を通して、境界を越えます。境界を突破するために必要だった“通過儀礼”が行なわれたのです。この小説は、人間のエゴイズムの観点から論じられることが多い作品ですが、極めて典型的な境界のテキストともいえるのです。「羅城門」の「羅」には包むという意味があります。城廓都市を包み込む門なのですが、この羅城門を、芥川は生を包む「羅生門」としました。城=都市ではなく、突き破るしかない生を包む門へと変換したのです。技巧的な作家である芥川龍之介の真骨頂が現われたテキストです。

 境界記号は、文学テキストの都市の風景の中に様々な形で現われます。同じく芥川のテキストである「蜜柑」では、トンネルがうす汚い少女が聖小女へと変貌する境界となり、泉鏡花の「夜行巡査」は、四谷の谷の貧民たちが英国大使館に象徴される近代空間に越境し排除されるテキストであり、永井荷風の「濹東綺譚」では、大川(隅田川)が夢の女が住むユートピア的異界との境界となっています。

 ひたすら快適に設計施工され、人々が現実に生きた痕跡が跡形もなく消去されていく現代都市空間ですが、文学作品は、そこに様々な境界が存在していたことを思い起こさせてくれます。愛しい女性に会いに行くはずの代助が苛立ちを覚えた小石川の坂を、境界の空間記号という視点で見てみてください。そこには均一的な都市の顔ではない、“生きられた都市”の表情が見えてくるはずです。

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