制度が変わっても、変わらないジェンダー
最近、フェミニズムというと怖いとか、過激というイメージがあると言う女子学生が増えています。ひとつには、ツイッター上で男性を激しく攻撃するツイフェミといわれるような投稿を目にしたり、メディアがフェミニストの声をネガティヴに取り上げることが多いためでしょう。それに加えて、多くの女性がこれまでのフェミニズムによって獲得してきたもので十分と感じているからかもしれません。
実際、最近の学生は、高校までは男女の不平等を感じることはあまりないようです。基本的に教育の現場では男女差をつけないように配慮され、彼らは守られているからでしょう。
ところが、進路を決める頃、あるいは就活を始める頃からおかしいと感じることが少しずつ出てきます。
例えば、理系の女子学生だと、家族や周囲の人から、女の子なのだから文系の大学に進学した方が良いと「アドバイス」されることがあります。就職面接時には、大学の卒論でフェミニズムの研究をしたと言った途端に男性面接官の顔色が変わるのを感じた、という女子学生もいます。
彼女たちは、それまでの守られていた空間から一歩踏み出した瞬間に、そこにはジェンダー差別があることに気がつきます。ときには、日々の何気ない会話のなかにさえも、「女性」という存在に対する差別や蔑視的な意識を相手から感じ取るのです。
たまにはスカートをはいてほしいとか、もっとかわいい格好をしてほしい、と彼氏に言われて、違和感を覚えたという女子学生もいます。
そうした違和感やモヤモヤは社会に出ると一層募ります。いわゆるセクハラ・パワハラ・マタハラだったり、男性たちから子ども扱いされたり、重要な仕事を任せられなかったり。
そのひとつひとつは、女性にとってはとても屈辱的なことであり、積み重なれば相当のストレスになります。
それを同僚や友人に愚痴ると、一緒に憤ってはくれるものの、では、みんなで手を取り合って声を上げるということには、なかなかなりません。社内の人間関係や、仕事がしづらくなるといった影響を考えるからです。
もし、現代女性たちが、過去のフェミニズムが経験した女性同士の結びつきを再現できたならば、男性社会のなかで声を上げやすくなり、生きやすくなるかもしれません。
先に述べたように、教育の場では男女不平等はほとんど感じないのかもしれませんが、女性らしく、男性らしくというジェンダー規範は、家庭内や社会において常に身近に潜在的に存在します。私たちは無意識のうちにそれを自分のなかに取り込み、内面化するだけでなく、再生産してしまうことが往々にしてあります。
例えば、男子学生は、社会に出て働いて、将来は家族を養うという前提のもと、大学で学んでいます。彼らに「主夫」という選択肢はありません。日本の多くの家庭では、夫が働き、妻が夫や子をケアするという構図が当然視されているからです。それを目の当たりにして育つ彼らにとって「主夫」は「男らしさ」からの逸脱を意味します。
多くの男性たちは、この「男らしさ」から逸脱しないように、男性たちの空間からはじかれないように、男同士の絆で結ばれた社会での成功を目指すのです。そして女性たちは、そんな男性中心社会に入っていくことで、日常的に、さまざまな違和感や苛立ち、モヤモヤを感じることになります。
フェミニズムと聞くと、権利や平等ばかりを訴える面倒な思想だと敬遠する人もいるでしょう。しかし権利や平等をもたらすだけでなく、女性たちの日々の悩みや苦しみに解決のヒントを与えてくれるのが女性同士の結びつきであり、ひいてはフェミニズムなのです。
しかし現在、新自由主義の影響や想像力の欠如によって他者と結びつくことが難しくなっているなかで、現代女性の生き方を「ポストフェミニズム」という言葉で単純に締めくくられようとしているとするならば、私たちはあらためてフェミニズムを問い直す必要があるのではないでしょうか。
学生にそういった教育の機会を与えていくのは、私たちの責任です。
社会人の皆さんにも、大学の市民講座や、様々な書籍を通して学ぶ機会があります。年齢や性別、そして地域差に関係なく、多くの方々に、現代の研究の成果や、未来に向けての知識をぜひ積極的に得てほしいと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。