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2014.05.01

富岡製糸場、世界遺産登録へ ―その背景にある評価されるべきポイント―

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日本の風土には馴染まない学歴身分制

 学歴主義は端的に言えば、偏差値が高い大学から順に階級化していくことであり、学歴身分制といえる。そもそも、階級社会や身分制というシステムが日本の風土には馴染まないものなのだ。江戸時代の士農工商という言葉にしても中国の科挙試験(官僚登用試験)制度を由来とするもので、身分というよりは職制と考えた方がいい。事実、江戸時代、たとえば城の普請などの際は専門家である建設業者(工)と発注者(士)は、協働して現場を動かしていた。そこにはブルーカラーもホワイトカラーもなく、仕事のプロ同士が相手を尊重し敬意を払う現場であったとも言える。
ヨーロッパは、今でも階級社会、身分制が色濃く残っているが、元来日本の風土にはそぐわないシステムといえるだろう。それが現在、学歴身分制ともいえるものが定着しているのは、社会の安定によって拠り所を求める心理が大きく働いていると考えられる。戦前の総合商社の人事に関する研究から見えてくるのは、当時の、学歴主義とは無縁のリクルートのあり方が有効である可能性を示唆していることだ。企業の競争力や活性化の源泉にあるのは人材であり、その人材を学歴というフィルターで振り分けることが、果たして、企業の成長発展に寄与するかどうか、十分考慮に値することと思われる。

富岡製糸場はデモンストレーションの場

 私は戦前の三井物産をモデルとして、人事システムを分析しているが、それは広い意味で日本の経済史やマーケティング史にも関わってくるものだ。戦前、三井物産は多彩な事業を展開していたが、その中でも三井物産横浜支店の主要商品である生糸は、明治維新以降の日本の近代化を支えた商品として注目してきた。その関連からユネスコ世界遺産への登録が期待される「富岡製糸場」も研究対象の一つとしている。
群馬県富岡市にある富岡製糸場は、1872年にフランスの技術を導入して明治政府が設立した官営の製糸場で、当時、世界最大規模の器械製糸工場だった。ここで生産された生糸の売りさばき(輸出)を命じられたのが三井物産である。フランスなどヨーロッパ市場での展開を図ったが、当初、富岡で生産された生糸は市場に受け入れられず、経営は厳しい状況に陥った。その要因として、あまりのコスト無視の経営に加えマーケティングの発想がなかったことが指摘できる。市場(消費者)のニーズを把握し、ニーズに合ったものを生産するという考え方がなかった。市場の要求を無視しても、良いものを作れば売れるという考えは現代の日本企業も陥りがちな安易な考えである。富岡製糸場は1893年に民間に払い下げられたが、買収したのが三井家である。その後三井物産等の商社は、アメリカ市場に狙いを定め、横浜支店からニューヨーク支店へ、日本の商人が消費地で売る情報・マーケティングシステムを完成させていく。日本の生糸輸出の利益構造が安定したのは大正期に入ってからであった(富岡製糸場の経営母体は、1939年に片倉製糸紡績会社《現片倉工業》に変わり、1987年まで操業が続けられ、その後の保存活動により現在に至る)。
日本の製糸業において富岡製糸場とは何であったのかを冷静に考えると、模範工場と言われるように生糸生産のデモンストレーションの場、プロパガンダであったと思われる。生糸輸出振興のために、明治政府は高い品質の生糸を生み出す設備やノウハウを有していることをアピールしたかった。その“顔”としての役割を、富岡製糸場は担っていたのだ。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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