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2018.10.17

「マジョリティ」が創り出す「他者」としてのLGBT?

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ヒエラルキー的な人間関係を前提とした「思いやり」

兼子 歩  この女性議員の言説には、自民党内からも批判が出ましたが、その中に、自民党は思いやりを大切にする党なのだから、この言説はいかがなものか、というものがありました。確かに、LGBTを性的少数者、弱者と捉え、大多数であるシスジェンダーは思いやりをもって手を差し伸べるべきだ、という概念はよく聞くものです。しかし、これは、大多数であるシスジェンダーを上位、少数であるLGBTを下位に見る、ヒエラルキー的な人間関係を前提とした概念です。このロジックに疑いをもつことなく、無批判である状況が日本にはあるのではないかと思います。例えば、日本には古くから同性愛に寛容な文化があったという議論があります。だから、現代でもLGBTに比較的寛容なのだと。しかし、衆道などの日本における歴史的に許容されてきた同性愛は、実際には、ヒエラルキー的な関係性が前提となっていることが多かったのです。つまり多くの場合、平等で対等な関係の愛ではなかったのです。ヒエラルキーに基づいて与えられた立場や役割を果すことで、その者が社会に存在することを認められるという社会のあり方に、日本人は戦前も戦後もずっと寛容であったのではないでしょうか。なぜ、オネエタレントがピエロを演じることで存在を認められるのか。なぜ、人権ベースの問題に対して、ヒエラルキー的な人間観に基づく思いやりという感情を語るのか。それは、ヒエラルキーに基づいて分をわきまえた役割を果すことが、権利にともなう義務を果たすことである、というロジックが批判も検証もされないまま、現代に脈々と受け継がれているからではないかと思います。

 アメリカでも、LGBTの人権保護が完璧かというと、全くそうではありません。特に、トランプ政権に代わってから、キリスト教の中でも非常に保守的な福音主義派が台頭したこともあって、反LGBTの動きが強くなっています。他方、こうした動きに対抗する人々も多く、アメリカにはまったく立場が異なりせめぎ合う2つの社会が存在し対立しているかのようです。

 ただ、アメリカの政治文化を支えている価値観には人間の個人としての平等と自由を重視する概念があります。日本ではマイノリティの問題を語る時、「弱者」への配慮、という言い方がなされることが多いですが、アメリカでLGBTをはじめとするマイノリティの権利が訴えられる時には、マイノリティは「弱者」とは語られません。マイノリティはその本質が劣等な存在なのではなく、差別や不平等を助長する法律や制度や慣行によって「不平等」に扱われ、力を奪われ、「不利」な立場におかれている、と主張されるのです。「弱者」という言葉には、マイノリティをヒエラルキーにおいて下に置かれるべき存在であるとする前提がある、という可能性もあります。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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