土器を生み出したのは、極東の狩猟採集民だったのか
日本列島の土器は約1万6000年前に誕生したとされています。これは中国南部と並んで世界最古級であり、旧石器時代から縄文時代への変化に相当するものです。つまり、極東地域の狩猟採集民たちは、世界に先駆けて粘土を焼いて器を作るという発明に至ったのです。この事実は、ここ四半世紀のあいだに国際的に広く認知されるようになりました。
このパラダイム転換の背景には情報の地理的な偏りがありました。とりわけ冷戦期に、ロシアや中国など旧東側諸国の考古学的成果が西側の学界に充分に伝わらなかったことが大きく影響しています。また、広大な地域で行われた発掘調査の報告は、各国の言語で発表されるにとどまり、国際的な学術交流も限定されていました。
ところが、1990年代以降の改革開放や情報化の進展により、2000年代に入ると、これまで知られてこなかった膨大なデータが世界に紹介され始めました。すると、西側の研究者たちが信じてきた「土器は定着的な農耕社会の中でこそ誕生した」という説とは合わない事実が次々と明らかになってきたのです。
たとえば中国や極東ロシアでは、すでに1万年以上前、つまりまだ農耕が一般的ではなかった時代に作られた土器が多数見つかっています。当時の人びとは狩猟採集の生活を送り、定住も限定的だったにもかかわらず、すでに粘土を焼いて器を作る技術を身につけていた。これは、土器の発明を「農耕社会の産物」とみなしてきた従来のヨーロッパ中心的な歴史観に根本的な修正を迫る発見でした。
こうした研究動向において、実は日本の考古学が持つポテンシャルは非常に大きいと私は考えています。というのも、日本ではすでに1950年代から1960年代にかけて、ヨーロッパ型の農耕起源モデルでは土器の誕生を説明できないという見解が提示されていたからです。
その先駆的な研究を行ったのが、明治大学とも縁の深い考古学者、故・芹沢長介先生(東北大学名誉教授)でした。芹沢先生は1950年と1955年に夏島貝塚(神奈川県横須賀市)の発掘に携わり、当時日本列島で最古とされた土器を確認しました。その分析の結果、この土器は世界的に見ても最古級であることが判明します。芹沢先生はこの成果をもとに、「西アジアの農耕民が生み出した土器とは別に、東アジアの狩猟採集民も独自に土器を発明した」という大胆な仮説を、今から60年以上も前に発表していたのです。
しかし当時の日本の研究成果は日本語での発信にとどまり、国際的にはなかなか共有されませんでした。加えて前述のように、当時はロシアや中国からの関連情報もほとんど公になっておらず、日本の発見は「孤立した特殊例」とみなされ、国際的な学会からは何十年にもわたって保留にされてきたのです。
今改めて歴史的経緯を踏まえて、日本列島の資料が持つ潜在的な力を再評価する必要があります。それにより、極東地域の狩猟採集民こそが土器を発明し、北ユーラシア全体へと広がっていったという過程を考古学的に検証していきたいと私は考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
