ナイチンゲール=クリミアの天使は、新聞によってつくられたヒロインだった
『オリバー・ツイスト』のきっかけにもなったように、当時は新聞がもつ社会的影響力が大きく、貴族、僧職、市民につぐ第四階級、第四の権力とも言われていました。なかでもタイムズの影響力は、今では想像ができないほど強大で、1855年の発行部数は6万部。ロンドンの主要な新聞すべてを合わせたよりも多く発行され、圧倒的な支持を得ていました。
タイムズは人々の声を聞くことを大事にし、それにより社会問題を解決させようとしていました。投書欄で誰かが問題提起すると、他の人々がどんどん意見し、紙面上で盛り上がってきた議論を、編集長が社説でもってまとめていく。会期が決まっている議会と違い、新聞は日々発行されます。結果、議会より議論が進んでいくなど、単純に新しい情報を伝えるだけじゃない場となっていました。
初めて戦争特派員を送ったのもタイムズで、最初の対象となったのが1853年10月に勃発したクリミア戦争でした。それまでは遠くの戦争を知る手段もありませんでしたが、特派員が軍隊に帯同し、戦地の様子を伝達。技術的にもテレグラフが発明されたことで、以前なら何週間何カ月もかかっていた情報が一瞬で届くようになりました。
戦地の病院は衛生管理が悪く、人も物資も不足しているため、負傷兵が治療を受けられないまま亡くなっている状況が、戦時特派員から伝えられます。これがきっかけになって、国中で政府を非難する声があがり、それに応える形でフロレンス・ナイチンゲールを責任者とした看護団がクリミア戦争に派遣されたのです。毎日のように記事が載り、世論が高まっていたとはいえ、病院についての最初のレポートが新聞に載ってから10日ほどで看護団がイギリスを出発しているのには驚きます。
新聞の影響力によって自身もその必要性を感じ、戦地へと赴いたナイチンゲールでしたが、さまざまな新聞が彼女を美化して報道するようになり、広く知られるようになりました。「クリミアの天使」あるいは「ランプの貴婦人」として知られているナイチンゲールもまた、新聞によってつくられたヒロインだったのです。
また、クリミア戦争は当初、クリスマスまでには戦争は終わると楽観視されていたところもあり、寒さの厳しい冬、南方の植民地の兵隊が冬服のないまま戦わされて病気になって亡くなるなどの被害が多くありました。そういったことを新聞が伝えたことで政府に対する批判が高まり、1855年1月には、首相が退陣に追いやられます。民衆の声が吸い上げられて、世論をつくって、社会を動かし始めたのがヴィクトリア朝の時代でした。
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