
米国のトランプ大統領や、ウクライナのゼレンスキー大統領の演説に、なぜ人々は熱狂するのでしょうか。大衆の心を掴むスピーチの名手は、しばしば「演劇的」であると評されてきました。名優たちの演技の特徴を分析しながら、国際政治の場で求められる「演劇的感性」とは何かを探ります。
トランプとゼレンスキーに見る「演劇的感性」
演説のうまい人は、なぜ偏った意見であっても人を惹きつけてしまうのでしょうか? 私はその背景に「演劇的感性」が存在していると考えています。演劇的なスキルは、現実には存在しないものを観客に信じ込ませる力、つまりフィクションをリアルに変える力を発揮します。この力が、政治の世界で人々を惹きつける際にも利用されるのではないかと考えています。
たとえば、ヒトラーが演説技術の向上のために俳優から指導を受けていたという有名な逸話があります。それが功を奏したかどうかはわかりませんが、結果的に彼の演説は非常に聞く人を引き付ける力を発揮することになりました。あるいはアメリカ大統領選挙に勝利したドナルド・トランプ氏も、彼の思想には賛否があり、実際偏った言説もありますが、その言葉に不思議な説得力を感じる人が多いのもまた無視できない事実です。そして、トランプ氏についても、演劇的観点から見ると、彼の最も優れた点は「オーディエンス(観客)を熱狂させる術」に長けていることだと言えるでしょう。ポイントは、「オーディエンスの反応」です。
演劇の世界では、作品を完結させるのは観客だ、とよく言われます。いかに効果的なメッセージでも目の前の観客が反応しなければ、作品としては成立しません。また、観客が熱狂すれば、その場でそれが「すぐれた作品」として完結するのです。これはテレビ番組でも同じで、わざわざスタジオに観客を入れるのも、その反応を引き出した上での「場」の空気感を視聴者に伝えることで番組を成立させているからなのです。
トランプ氏が行っていることも同じです。彼は、演説会場などで目の前のオーディエンスに対し、圧倒的に強い力で働きかけます。彼の呼びかけを聞いたオーディエンスは「自分に語りかけられている」と感じ、その熱狂的反応が、やはり演説そのものとセットになり、テレビやネット中継を通じて広がって、さらに大きな影響力を持つようになるのです。
そして、人々は、場合によっては事の善悪・真偽の判断を保留にして、目の前の圧倒的な力に魅了されてしまい、心を奪われることがあります。演劇がフィクションであっても説得力を持つのと同じ構図です。トランプ氏に関しても、あれだけ賛否が渦巻きながらも、最終的に彼が熱狂的な勝利を収めた背景には、間違いなく、彼の「演劇的に場を支配する能力」が効力を発揮したからだと思います。これは、戦争の状況でも同じことが言えるかもしれません。戦争という行為が負の歴史であると理解していても、自国がその渦中にあるとき、リーダーの言葉を信じ、それに従ってしまうという現象は歴史を通じて繰り返されています。
ただ、演説の力というとそのような攻めた事例ばかりでもありません。ウクライナ戦争勃発直後、ゼレンスキー大統領は各国の議会で演説を行い、自国への支持を勝ち取ろうと尽力しました。彼は、オーディエンスを自らに引き付けようとするトランプ氏と違い、相手に寄り添いながら説得するスタイルを持っています。リモート演説や直接訪問では、相手の国ごとにメッセージをアレンジして届けるなど、その柔軟性が国際社会での支持を引き出した要因だと思います。
たとえばゼレンスキー氏は、イギリスでの演説ではシェイクスピアを引用し、その文化的背景をうまく利用しました。このようなアプローチが、彼のスピーチを特別なものにしています。一方的に「私たちを支援してください」と訴えるだけでなく、「こういう文化的背景を負っているあなたたちならこの言葉が分かるはずだ」と相手に共感させるかたちで話を進めているのです。
一見すると意外な印象を受けますが、両者とも、豊かな「演劇的感性」を頼りにしている点では共通しています。トランプ氏のスタイルは相手にぐいぐい攻めていって、結果的に相手を自らに引き付けます。自らの意見や感情を直線的に表現し、それによって場を支配し、オーディエンスを熱狂させます。対して、ゼレンスキー氏は相手の懐に入り込んでいく。しかしこれも、別な形をとった「攻め方」でもあります。相手からの熱狂的な反応を引き出しているという点では、両者ともに「演劇的感性」を巧みに利用しているといえるでしょう。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。