研究の裏話ランニング後の一杯の水のように
教授陣によるリレーコラム/研究の裏話【5】
私は研究の合間に、趣味としてランニングをしています。走り始めたのは20代、大学院に入った頃からで、気がつけばもう30年近くになります。ほぼ1日おきに、早朝のまだ人通りの少ない道を12〜13キロほど走るのが習慣です。朝日を浴びながら走り出すと、きょうも1日が始まるのだと実感します。
メディアが伝えるランナーの多くは「走ると爽快で気持ちいい」と口にしますが、私の実感はまったく違います。むしろランニングは本質的に苦しいものだと思っています。二本の足だけでそれなりの距離を走るというのは、体に負荷をかけ続ける行為です。夏は暑さで体力を奪われ、冬は冷気で肺が痛む。決して楽にはなりません。
ただ、この苦しさがあるからこそ、ふと研究につながるアイデアが浮かんだり、走り終えた後の達成感が大きな喜びになったりするのです。言い換えれば、苦しさが土台にあるから、その上に小さな楽しみや自己肯定感が積み上がる。
これは研究や他の仕事、そして人生にも共通しているのではないでしょうか。最初から順風満帆で何もつまずかないとすれば、かえってやりがいを見いだせない。困難を乗り越えるからこそ手に入る実感があるのです。
ランニング界でよく言われる言葉に「どれだけ練習しても楽にはならない。速くなるだけだ」というものがあります。
私はこれを研究にも重ね合わせます。論文を何本書いても、執筆そのものが楽になることはありません。ただ、少しずつ巧くなるだけです。文章を書くことは常に苦しく、思い通りに運ぶことは滅多にない。しかし、それでも続けるからこそ、自分なりのペースが形づくられていくのです。
走っていると、当然ながら自分より速く追い抜いていく人もいれば、ゆっくりマイペースで進む人もいます。けれども速い人が楽をしているわけでも、遅い人が怠けているわけでもない。それぞれが自分なりの苦しみを抱えながら前に進んでいるのです。
研究者も同じです。若い世代もベテランも、それぞれに苦しみを抱えて格闘している。そう考えると、自分も甘えてはいられないと思いますし、同時に他人に対しても寛容になれる気がします。
学生やビジネスパーソンの方々も、日々の中で「自分だけが苦しいのではないか」と感じる瞬間があるかもしれません。しかし、周りの人々も同じように苦しみを感じながら、それでも前へ進んでいます。その事実を意識するだけで、もう一歩踏み出す力が湧いてくるのではないでしょうか。
ランニングの後に飲む一杯の水が格別においしいように、人生の輝きは苦しみを経たからこそ味わえるもの。そのように私は実感しています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
