
2022年9月8日に崩御されたイギリスのエリザベス女王に、最後のお別れをしようとする一般弔問に並ぶ英国国民の列は10km以上にも及びました。女王が、なぜ、国民からそれほどまでに慕われ、敬愛されたのか。イギリスの立憲君主制をあらためて考えてみましょう。
王室のアップデートによって形作られた立憲君主制
君主とは、国家を統帥する最高の地位にある人であり、それが世襲制となれば、私たちは、独裁者のような絶対権力者をイメージしがちです。
しかし、イギリスの王室は立憲君主制です。つまり、君主といえども憲法の制約下にあるということです。絶対君主制とはまったく異なる体制なのです。
イギリスの王室が立憲君主制になるのは、長い歴史があります。まず、イギリスのイングランド地域を統一する王が現れるのは9世紀頃です。その後、1066年にウィリアム1世がノルマン朝を起こします。この王朝が現在のイギリス王室に繋がります。
当初の歴代の国王たちはまさに絶対君主であり、権限をだれにも制約されることなく国を統治していました。
ところが、1199年に王位に就いたジョン王は、貴族や諸侯、教会と権力争いとなり、その対立を終結させるために、1215年に彼らに特権を与えることを記した文書を公表します。それが、「マグナ・カルタ」と言われるものです。
そこには、信仰を認め教会を保護することや、国王が国民にかける課税も一定のルールに従うことなどが記されています。
また、39条には、イギリスの国民は裁判によらなければ処罰されないことが記されています。つまり、国王といえども国民を恣意的に処罰しないということであり、これは、現代のイギリス制定法集にも形を変えて残っています。
要するに、ジョン王は自らの権限を制限し、それを貴族や諸侯、教会に配分することで対立を終結させ、彼らと共存する方策を選んだのです。
ところが、1685年に即位したジェームズ2世は専制主義を復活させ、一部の法律を無効にしようとします。しかし、やはり、教会や議会と対立し、結果、支持を失ったジェームズ2世は国外に逃亡し、1689年、娘のメアリーと夫のウィリアムが共同で即位します。
このとき、議会が提出した権利宣言、すなわち、国王といえども議会が作った法律に従うなどの宣言を認めます。これが「権利章典」となります。
このときの議会は、貴族や大地主などの地方の有力者で構成されたもので、国民の代表とはちょっと違いますが、ともかく、議会が王権を制限するという仕組みができあがるわけです。
この一連の流れは血を流さずに進められたことから名誉革命と言われ、立憲君主制というイギリスならではの王室体制の基盤となります。
名誉革命は、議会側から見れば、王権の制限を達成した革命ですが、王室側から見れば、王室を時代にあわせてアップデートさせ、存続を図ったとも言えます。
例えば、フランス革命に見るように、絶対君主制にこだわった王室は時代にあわなくなり、結果的に途絶えることになります。イギリスの王室が1000年に及ぶ歴史をもつ背景には、時代にあわせたアップデートがあったと言えるわけです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。