文化とはなんなのか、あらためて考える
例えば、民主主義国家である日本では、反体制的な表現も規制されるわけではない、という点で文化と政治は別物と考えるのも、やはり、無邪気過ぎると言えます。
反体制的な表現が可能なのは、民主主義という政治体制の下で担保されているからです。
あるいは、日本で多くの文化活動などに投入されている助成金と、それが得られるときだけ行われる文化活動もあります。それらと、ロシアの劇場の運営資金と、それによって上演される演劇と、どれほど違うでしょうか。
芸術の自立性というコンテクストは、無自覚に芸術家を称揚することを意味するのではありません。例えば、芸術家たちの芸術的発言も政治的文脈を前提としたものであり、政治的発言も、また、芸術的文脈を前提としたものである、という複雑な背景があるのです。
それを踏まえることが必要であり、それによって描かれた見取り図の中に芸術家の活動を慎重に配置し、読み解くことで、「芸術の自立性」とは見えてくるものだと考えています。
そうした意味で、ロシアと西側各国による今回の踏み絵が正しいこととは、私は決して思いませんが、国家を支持すると表明すること、支持しないと表明することはなにを意味するのか。また、「文化」と発言したときの文化とはなにを意味するのか。非常にコストがかかることではありますが、個別的にコンセンサスを取っていく必要があるのではないかと考えます。
あらためて、いまのロシアの演劇人たちの沈黙の意味を考えると、非常に多義的であるかもしれません。ただ、嵐が過ぎ去るのを待っているのか、あるいは、自分たちの演劇文化の自立性に対する内省なのか。その結果、ソ連時代にアンダーグラウンド文化が発展したように、今日では、例えばインターネットのようなツールを使って、この状況を乗り越えるなんらかの活動が興るのか。
いずれにせよ、これまでのアヴァンギャルド研究では、「政治への抵抗」という側面が無邪気に主張されてきたりもしますが、いまのロシアの状況を見ながら、かつての複雑な状況をより慎重に分析して、芸術家たちの活動の実際を浮かび上がらせていきたいと思っています。
私たち日本人も、自分たちが自立的に行っていると思っている様々な活動に対して、あらためて、その意味を問うてみる良い機会なのではないでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。