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2022.02.10

西欧でも関心が高まる、私たちが知らなかったイスラム教の魅力

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正統派から異端視されたスーフィズム

 イスラム教と聞いて思い起こされるのは、礼拝や喜捨、断食や巡礼など「目に見える」行為ではないでしょうか。

 イスラム教誕生からほどなくして、イスラム教の教義の詳細が規定されていくに従い、「型」が定められていきます。型が定められると、型を重視するあまり、気持ちの伴わない礼拝をするような人もいたようです。これに対し、内面の伴わない行為を避け、精神性を尊ぶべきという考え方がイスラム教誕生後の早い時期から生まれています。それが、スーフィズムです。

 スーフィズムを人生の指針とし、実践する者のことをス―フィーといいますが、初期のスーフィーは世俗を嫌い、山にこもって修行を行うような人たちでした。

 修行によって精神を高め、心身を清め、神に近づく、あるいは神と一体化することを目指したのです。日本にもいる行者や、修行僧のような存在です。神と一体化することを目指したスーフィズムは、様々な修行の方法を生み出しましたが、代表的なものがセマー(旋舞)です。セマーはトルコでは観光客向けに披露されていることもあります。

 しかし一方でスーフィズムが精神性を尊ぶあまり、形式的な戒律を軽視したり、心が伴っていない礼拝であればしない方が良い、というような考えにもつながったため、イスラム法学者らからは非イスラム的であるとされることもあります。しかしながら法学や神学などイスラム教の正統派の学問が徐々に専門的になり高踏的になる中で、スーフィズムは善く生きるための指針を民衆に対しても提供したことで、イスラム教と民衆を繋ぐような役割を果たしていったのです。

 例えば、13世紀に活躍したルーミーというスーフィーは、イスラム教の教えを寓話にし、詩や説教の形で民衆に伝えました。ルーミーの有名な説話の一つに、象をテーマとしたものがあります。とある人が象を連れてきて、周囲の皆に披露しようとした際、暗い部屋の中で象を披露することになりました。部屋の中が暗いため、見物人は各々手探りで象がどのようなものか知ろうとします。ある人は象の鼻に触れ、象は雨どいのようだと発言します。またある者は象の耳に触れ、象はうちわのようだと言います。別のものは象の足に触れ、象は柱のようだと言い、また別のものは象の背中に触れ、象は玉座のようだと言いました。そして各々象に関し自分の言い分を主張し、反目します。ルーミーはここで、もしもろうそくがあったのなら誤解は解消したのにと言い、付け加えて、我々の目というものがいかに盲目であるかを指摘します。この説話において「手」は目(視覚)を暗示しており、我々が普段頼っている身体的な目はものの一部をしか把握することが出来ないと説明しています。そしてスーフィズムにおいては身体的な目ではなく、心の目(心眼)を使い、物事を把握することを大切にします。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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