テクノロジーと共存する関係を考える
現在までの科学的発展の成果は、観点を変えれば、「人間の身体からの離脱」や「人間による自然性の統制」とも言えます。
例えば、徒歩から、自動車、新幹線、リニアモーターカー、飛行機、ロケット、という発展。少し位相が変わりますが、インターネットも人間の身体機能の代替、そして離脱とも言えます。何度も言いますが、それは人に利便性や効率性をもたらしました。
また、不確実性に満ちた自然を統制することによって、万が一のアクシデントすらも排除することを目指したシステムを構築し続けています。確かに、それは、人に安楽をもたらしていきます。
一方で、そうした現代文明は、それ自体が円滑に順調に稼働するために、実は、不確実で多様な存在である人に、均質化を求める巨大な矢印となって進んでいるように思います。
だとすれば、それは、人にとって幸せに繋がることなのでしょうか。
もちろん、だからといってテクノロジーはいけないもの、拒絶すべきものかと言えば、決してそうではありません。
例えば、以前は、山歩きや登山をするときに、コンパスと地図が必需品でした。それでも、どんなときでも、誰でも、コンパスや地図を完璧に使いこなせるという保証はなく、迷うかもしれないという不安を抱きながら、だから、五感も活かしながら目的地を目指したのです。
しかし、現代では、スマホのGPSを使えば、ほとんどの場合、誰でも問題なく目的地に到達できます。もちろん、それはそれで良いことです。
でも、例えば、山の中でスマホの電池が切れたらどうなるでしょう。自然の中で無力な自分を思い知ることになるかもしれません。それは、スマホに依存し、さらには操られていた自分を知ることでもあります。
人は自然の一部と言われます。そこには様々な意味があると思いますが、人は自然と同じく不確実で多様な存在であることも指していると思います。
それがゆえに陥ることもあるアクシデント・問題などに対して、知恵や工夫、身体を働かせられることが、豊かな感性・生きる力ということだと思います。
その意味で、現代文明のテクノロジーに依存し過ぎるのでも、拒絶するのでもなく、共存する関係であることが重要なのではないかと考えています。人間の幸福にとってのテクノロジーへの依存と拒絶の分かれ目の在り処(線引き)について悩んでいるのです。
そうしたことに気づき、その先を考えるきっかけになるひとつが、野外教育なのではないかと考え、研究を進めています。
その背景には、コスパやタイパ(タイムパフォーマンス)を求めた私たちにAIが最後に出す最適解が、「人はいない方が良い」だという話が、SFでも笑い話でもないことを、実は、多くの人が感じ始めているということがあるのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。