哲学は複合的な学問領域である
新型コロナのワクチンを開発したことで一躍有名になったドイツのバイオテクノロジー企業ビオンテック(BioNTech)も、経営判断に哲学を取り入れているとみられます。
同社の創業者はエズレム・テュレジとウール・シャヒンいう医学者夫婦です。彼らを密着取材したルポルタージュによると、夫で免疫学者のシャヒンは10代の頃、哲学者カール・ポパーの著作と出会い、自分の価値観に多大な影響を受けたといいます。
ポパーの業績は幅広いですが、シャヒンに影響を与えているのは批判的合理主義の立場だと思われます。ごく簡単に説明するとすれば、完璧な理論なんてないので、いろいろな人の指摘に耳を傾けて、間違いを直しながら真実に近づこうとするのが科学だ、という考え方です。
ポパーは、仮説や推測の誤りが指摘されることによって、正しかった方も間違った方も、どちらもが一歩ずつ真理に歩み寄れるはずだと主張しました。
「一つの理論——すなわち、われわれの問題に対するまじめな暫定的解決案——の反証そのものが、常にわれわれを真理へ一歩近づけることになる。そして、このことが、われわれは自己の過誤から学びうるということの意味なのである」(K・R・ポパー『推測と反駁』藤本隆志・石垣壽郎・森博訳、法政大学出版局)
2020年の一刻も争うパンデミックのなか、シャヒンらは製薬大手ファイザーに掛け合って協働を始め、研究者らと大胆な仮説をぶつけ合い、異なる理論の両方を試験し、新型ワクチンの開発に成功しました。業界や分野を横断するコラボレーションが求められる昨今、ビジネスにおいてもポパー的な態度の重要性は増しているのではないでしょうか。
そもそも哲学は、対象であれ理論であれ、その本質にまでさかのぼって研究することから、様々な領域を支える基礎を明らかにします。それゆえ、本性として複合領域にまたがることになります。
「学際」という言葉や「学問の再編」という言葉は以前より繰返し喧伝されていますが、様々な学問を結び、融合させるためには、哲学が不可欠であり、実際に多くの学際的研究に哲学者が参加しています。
それは特に欧米において盛んで、私のドイツでの指導教授も理論宇宙物理学と哲学を学んでいますし、哲学を含む複合領域の学問を修めて複雑な社会的課題に取組んでいる人物もたくさんいます。
近年で国際的な注目を浴びた例では、ドイツ倫理委員会のトップとして新型コロナ感染症への対応で大役を果たしているアレーナ・ブックス(Alena Buyx)氏があげられるでしょう。感染モデルや医療倫理といった専門知を一般社会につなげる蝶番の役割を担う彼女は、もともと医学で博士号を取得した後、哲学で教授資格論文を提出しています。
こうして複数の領域を行きかうことで、事象の複雑性に対応するだけではなく、思いがけなく新奇なものが発見されます。同時に、二千年以上に渡って積み上げられた人間の知識、あるいは人類の歩みそのものから、現代の課題を見つめ直すことにもなるでしょう。
哲学を通じて創出された価値は、地域や時代を超えた普遍的なものでありえます。一度、難解で迂遠だという思い込みを捨てて、ビジネスの課題発見に活かせる学問として哲学に触れてみるのはいかがでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。