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2019.10.23

渋沢栄一に学ぶ、多様な立場、多様な経験を活かす生き方

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日本初の銀行の設立に始まり、500以上の会社の設立に関わる

 渋沢の転機はさらに続きます。彼がヨーロッパにいる間に慶喜は大政奉還し、幕府が倒れるのです。

 渋沢たちが帰国したとき、慶喜は静岡県の宝台院に蟄居していました。渋沢は静岡まで行き、慶喜に謁見し、視察報告をしたと言います。

 その後、渋沢は東京には戻らず、1869年(明治2年)、静岡商法会所を立ち上げます。これは、商社と金融会社の機能を併せもったような会社で、静岡の物産品を中心に、様々な商品を扱い、移入や移出を手がけました。

 資本金約29.5万両に対して、8.6万両の純利益を上げたと思われる史料が残っています。資本金に対して約30%もの利益率です。

 実は、同じ時期に、新政府が同じような機能をもった会社を全国8ヵ所に設立しますが、これはことごとく失敗します。

 なぜ、渋沢だけが成功したのか、まだ、詳しいことは解明されていません。ただ、この頃にはすでに、三井家の大番頭であった三野村利左衛門らと頻繁に情報交換をしていました。

 まさに、情報は人にありと、人との協力を重視する渋沢の姿勢が、そこにあったのかもしれません。

 この静岡商法会所の実績が注目され、渋沢は新政府に呼ばれ、民部省租税司(後に大蔵省に編入)の仕事に就くことになります。

 しかし、政府内にいたのでは思った活動ができないと下野し、1873年(明治6年)、第一国立銀行の設立に参画し、総監役に就きます。

 これは、日本で最初の近代的銀行です。「国立」という名称があるため、国営だと思われがちですが、民間資本による銀行です。

 以後、1879年(明治12年)ぐらいまでの間に、全国に153の「国立」銀行が設立されます。これらの銀行が各地域の産業資本の基盤となり、日本の地方活性化が進んでいくことになります。

 これらの銀行は、設立されたものの近代的な運営の仕方がわからず、責任者たちはことごとく渋沢に助言を求めに行ったようです。

 青森県の弘前五十九銀行は、元津軽藩の家老が助言を求めて渋沢に会いに行きましたが、服装から所作、言葉遣いに至るまで、要は、上から目線の武士の商法ではダメなことを、渋沢に細々と注意されたことが記録に残っています。

 その後の渋沢が、銀行だけでなく、鉄道、電力、製紙など、多様な分野の500以上もの会社の設立に関わっていくのは、よく知られていることです。

 当時の日本で、産業を振興していくには多様な産業の連関的な発展が必要であることを認識し、そうしたビジョンが描けていた渋沢は、だから、ひとつの事業にとらわれることなく、様々な産業を興していったのです。まさにシュンペーターのいう「新結合」つまりイノベーションですね。

 そのなかで、意外と知られていないのが、郵便制度の構築に尽力した前島密は、渋沢が静岡時代に見出し、政府に推薦した人材ということです。

 渋沢は、産業連関と社会の近代化には、有能な人材の結束が必要であり、自分とともに働いてくれる人材として前島を推したのだと思います。

 すなわち、渋沢の人材重視や人材育成の活動は、すでに静岡時代から行われていて、それが、のちに一橋大学や日本女子大学の創設に関わっていくことにも繋がるのです。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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