
大量の情報が入り乱れる現代において、「偽情報・誤情報」の対策は重要な課題です。しかし、それは同時に「誰が真実を決めるのか?」という根深い問題を含んでいます。本稿では、各SNSが採用する異なる情報管理モデルを比較しつつ、「思想の自由市場」の法理論を踏まえた民主主義の原則について考察します。
誰が「真実」を決めるのか?
2024年11月に実施された兵庫県知事選挙では、伝統的なマスメディアが現職知事に対する批判的な報道を繰り広げたにもかかわらず、知事は再選を果たしました。これに対し、SNS上で流布された誤情報が有権者の判断を歪めたのではないかという指摘が出ています。しかし、私はむしろSNSの普及によって、選挙をめぐる表現の自由・民主主義の理論に変化が生じているのではないかと考えています。
SNS上での言論の応酬が、選挙結果や民意に大きな影響を与えていることは明らかです。ゆえに、偽情報や誤情報によって民主主義を損なわれるという懸念は理解できますが、同時に「その情報が誤りかどうか」を誰が判断するのかという難問も浮上しています。もしも、国家やマスメディアが一方的に「偽」を判定し、それを国民に信じるよう強制するようになると、人々の表現の自由にとって深刻な問題を生じさせるからです。
その観点において、FacebookやInstagramを運営するMeta社が2025年1月、大きな方針転換を発表したことは注目に値します。FacebookやInstagramでは、これまで第三者機関による「ファクトチェック・プログラム」に基づいて偽情報の削除等を行ってきましたが、今後は様々な観点からの情報をユーザーが追加しあう「コミュニティノート・モデル」に変更するとしたのです。
Meta社が採用してきたファクトチェック・プログラム(以下、ファクトチェック型)とは、ファクトチェッカーが事実確認を行い、独立した第三者機関と連携しつつ情報の正確性を評価し、当該情報が虚偽であると判定された場合、「虚偽の情報の配信の抑制」、「虚偽の情報に関する追加情報の提供」、「虚偽の情報を識別し、フィードバックする手段の提供」を行うものです。
一方の「コミュニティノート・モデル」(以下、コミュニティノート型)は、X(旧ツイッター)などで採用されている仕組みであり、Xの場合、「誤解を招く可能性があるポストに、Xユーザーが協力して役に立つノートを追加できるようにすることで、より正確な情報を入手できるようにすることを目指すもの」と定義されています。
ファクトチェック型にもコミュニティノート型にも一長一短がありますが、表現の自由の観点から見た場合、私はコミュニティノート型に一定の合理性があると考えています。ファクトチェック型は、一見公平に見えるものの、情報を判定する「第三者」が持つ価値観やバイアスによって判断が左右される可能性があり、結果として事実上の検閲を生み、言論の自由を損なうおそれがあるからです。
「コミュニティノート型」のメリットと課題
では、ファクトチェック型とコミュニティノート型のそれぞれのメリット・デメリットとは何でしょうか。
まず、偽情報・誤情報を完全に排除するという目的を第一に考えた場合には、ファクトチェック型の方が有益かもしれません。これはもともとEUの法規制の考え方に沿っており、第三者の専門家が情報判断に一定の信頼性を担保するという前提があります。
しかし、インターネットの情報の中には、客観的に真偽を問えるものと、そうでないものが混在しています。とくに後者は、情報の発信者・受信者の主観によるところが大きいと言えるでしょう。
たとえば2024年兵庫県知事選挙で見られた「現職知事は悪くない」という意見は、一部では「実際にパワハラ行為があったかどうか」とは異なる論点の、客観的根拠に乏しい憶測によって語られる向きがありました。しかし一方で、専門家やマスメディアが行うファクトチェックにおいても、そのファクトチェッカー自体が何らかの立場や視点を持っている以上、完全な中立を期待するのは困難です。また、専門家の中でも意見が割れることはしばしばありえます。
ここで指摘しておきたいのは、ファクトチェック型によって偽情報・誤情報を排除しようとした結果、多様な視点そのものが失われて、民主主義の健全な発展に必要な情報の自由な流通とそれを基盤とした自由活発な議論が阻害される可能性が常にあるということです。
その点、Xが導入しているコミュニティノート型では、ユーザー同士が投稿に対して補足情報を加えることができます。これは多様な視点の提示によって利用者が判断材料を得る仕組みです。
また、事業者(プラットフォーマー)側にとっても、コミュニティノート型はファクトチェック型に比べて運用コストが低いというメリットがあります。ファクトチェック型では、誤情報認定に対する抗議や法的トラブルが発生するリスクが高く、再検証のためのリソースも必要です。
もっとも、コミュニティノート型にも弱点は存在します。たとえば名誉毀損や著作権侵害など、迅速な対応が必要なケースでは機能しづらいことがあります。また、投稿にいくらノートが付け加えられても、元の情報を速やかに削除する仕組みにはなっておらず、深刻な害を防ぎきれない場合も考えられます。
いずれにしても長短がありますが、私がコミュニティノート型を評価するのは、民主主義の原則として、真偽を判断する権利は政府や専門家ではなく情報を受け取る個々人にあるからです。

なお、こうした考え方の基盤には「思想の自由市場」という思想があります。これは、アメリカの合衆国憲法修正第1条が保障する言論の自由に基づいた法理論で、簡単にいうと「思想(言論)もまた経済と同じく自由な市場に任せれば競争原理が働き、結果的に『真理』が勝ち残るだろう」という信念のことです。
とりわけアメリカでは、この考えに基づいて市場競争の維持が最重要視され、たとえば新聞・雑誌及びSNSは規模の大小はあれども、名誉毀損、プライバシー侵害、わいせつ表現等、市場競争原理が有効に機能しないとされたときのみ、規制の合憲性が支持されてきました。
大切なのは「対話の場」を維持すること
思想の自由市場が最も大切にしているのは、「どんな意見であれ、対話の場からは排除しない」ということです。議論を呼ぶ問題のなかには、すぐに結論が出るものばかりではなく、数年、数十年をかけて判断が定まる場合も多くあります。だからこそ、さまざまな意見が交わる自由な空間を維持し、国民一人ひとりが自ら考え、判断できる社会の土壌を作ることが必要なのです。
言論には言論で対抗する「対抗言論(more speech)」という原則も、これに基づいています。有害な意見や誤情報に対しては、禁止や検閲よりも、それに反論する言論を活発化させるべきだという姿勢が求められると思います。
たとえば、福島第一原発から出た水の海洋放出の問題において、その水を「処理水」と呼ぶか「汚染水」と呼ぶかは、科学的なデータがあるにも関わらず、各人によって受け取り方に違いがあります。このようなテーマでは、結論を急ぐよりも、多様な意見が表明され続ける「場」を維持することが重要です。
また昨今では、ある表現が単純に「不快である」「迷惑である」という程度で、すぐさま法律による規制の必要性が主張されることがありますが、私の意見としては、思想の自由市場の考え方からすれば、そのような規制には慎重であるべきだと考えます。
たとえば近年、選挙における政見放送などでの「受け狙い」の候補者が乱立し、選挙ポスターの品位が問われる場面も増えています。しかし、他者への具体的かつ明確な危害がない限りは、そのような表現も基本的には許容されるべきであり、その上で、対抗言論によって議論されることが望ましいです。
たとえ規制を行う場合でも、それが本当に必要最小限の手段であるか(LRA:Less Restrictive Alternative)を検討することが必要です。たとえば、インターネット上の青少年に有害な性表現への対応として、全てを一律に禁止するのではなく、親がフィルタリングアプリを設定できる環境を整えるなど、柔軟な方法も考えられます。
もっとも、思想の自由市場の理論には、さまざまな反論があります。代表的なものとしては、SNS時代において放任主義では正しい情報が必ずしも支持されないという主張が挙げられます。
たしかに、SNSでは感情的・扇動的な情報が短時間で拡散しやすく、また、フィードが個々の関心に基づいて内容が最適化されているため、似た意見だけが繰り返し表示される「エコーチェンバー」の状態が生まれやすいという問題があります。また、多くのSNSはAIによるレコメンドアルゴリズムが投稿の表示順序や頻度を左右しているため、結果として偏った情報環境を生み出してしまうリスクもあります。
ですが、私の考えでは、こうしたSNS上のバイアスの解消にこそ対抗言論が有益です。思想の自由市場の優れた点は、実のところ、結論(=情報の真偽)を論戦の結果に委ねることにあるのではなく、その論戦自体を遮断しないこと、つまり多様な意見同士の議論を途切れさせない「対話の場」が維持されることにあるのです。
Meta社の方針転換に見られるように、プラットフォームが「真実の判定者」になるのではなく、利用者自身が判断する環境を整えることは、表現の自由の観点から望ましい方向といえるでしょう。民主主義を支えるのは、一人ひとりの判断力と、その判断を支える情報環境にほかなりません。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
