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「写真」「中平卓馬」「孤島論」
2024.09.18

人生のターニングポイント「写真」「中平卓馬」「孤島論」

リレーコラム
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教授陣によるリレーコラム/人生のターニングポイント【83】

1988年から2007年まで横浜市にある横浜美術館で学芸員として勤めていました。そこで「写真」に本格的に出会ったことが、その後の人生を決定しました。

その頃の私にとって重要な意味を持った仕事のひとつとして、2003年に中平卓馬の回顧展を担当したことをあげておきます。

中平卓馬という写真家は、沖縄をとても大切な場所として考えていました。1973年、つまり「本土復帰」の翌年に初めて足を踏み入れてから、沖縄は晩年までずっと、モチーフ以上の思考を誘発させる根源的な場所であり続けました。

私もまた、「中平卓馬展」の巡回準備のために訪れた沖縄から、短い言葉では要約しがたい鮮烈な印象を受けました。それ以来、繰り返し「島という空間」について学び、考えを巡らすようになりました。

2010年には沖縄本島の東方、空路で約360km離れた先に浮かぶ孤島、南大東島と北大東島を歩きました。

珊瑚礁が隆起して形成された大東の島々は、周囲の海岸線を「幕(はぐ)」という崖のような形状が取り巻いており、海を隔てた内地はやや落ち窪んだ平地になっています。

内から見た「幕」は地平線のように見え、私はなにか広大な空間の中にいるような感覚になりました。

そして、島から那覇経由で羽田へ戻るその日、現地のある方が「また来て下さい。わたしたちはずっとここにいます」とおっしゃいました。その言葉が、今でも気になっています。

「地方」や「辺境」と対になる「中央」や「中心」は、はたして大都市のことだろうか。

「島」について考えていると、どれほど小さな孤島であっても、ひとつの完結した宇宙を感じる。

「ここにいる」ということによって、その場所は世界の「中心」たりえる。

同時に「島」は、隔離された場所として、たえず暴力や無視にさらされ、切り取られ「周辺」の区画に位置づけられる。

大きな都市の中にも、誰のかたわらにも、その意味で「島」は存在する。

「飛び地」である「島」を連なりとして、「島々」として考えつづけることによって、自分のなかに、いくつもの「中心」をつくってゆけるのではないか——。

そういう場所こそが、実は世界のリアリティを決定しているのだと私は思います。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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