
歩いているときは、何もしない。だからこそ、「存在する」ことの感覚が戻ってくる——。フランスの哲学者フレデリック・グロによるベストセラー『歩くという哲学』(山と渓谷社)は、そんな逆説的な思想を通して、社会の速度や効率主義を問い直しています。その日本語訳を手がけた谷口亜沙子先生に、同書を手がかりとして、現代における「詩」「文学」「翻訳」の意義について伺いました。
歩くこと、ただ存在すること
フレデリック・グロの『歩くという哲学』は、ルソー、ニーチェ、ランボー、ソロー、ガンジーなど、さまざまな詩人や思想家、作家たちをめぐる断章を通して、「歩く」ということを考えようとした作品です。哲学といっても、エッセイのような風とおしのいい書きぶりなので、気になった章から読みだすなど、どこか「散歩」に出かけるようにしてつきあえる本だと思います。
marcher(歩く)というフランス語は、単独でも「山を歩く」という意味になることがあり、グロ自身も山歩きが大好きなので、山や自然の中を歩くことについて書かれた箇所は多いですが、この本が考えようとしているのは、むしろ、街中であっても、通勤や通学でも、乗り物や馬にたよることなく、足を交互に出して、土を踏んで歩く、という行為そのものについてです。
といっても、単に、歩くことは素晴らしいとほめる本ではなく、歩くことの中にある単調さや退屈さ、疲れ、倦怠感などまでがリアルに見つめられているので、「歩く」くらいなら「ほかのこと」をしていたいよ、という人にとっても、発見のある本だと思います。
「ほかのこと」というのは、人によってさまざまだと思いますし、「したいこと」だけではなく、「しなければならないこと」もまた、たいていは小やみなくあるものです。そのほか、「したいとすら思っていないのに、気がつけばしてしまっていること」として、画面に接続されたまま、ニュースや画像を次々と瞳に写し続ける、ということもあるかもしれません。新しいニュースがすぐ前のニュースを押し流し、その渦に巻き込まれてしまう。そうした日々のなかで、グロは、ただ「存在する」という感覚に立ち戻ろうとします。
〈歩いている時には、何もしない。だが、歩くこと以外には何もしなくてよいので、存在することの純粋な感覚が甦ってくる。子供時代を満たしていた、ただそこにあることの幸福。歩くことで、幼年時代に感じていた永遠の時の流れに、再び身をひたす。〉(「永遠」)
ただし、それは、歩くことによって「真の自分に出会おう」としているのともまた違うのだとグロは述べます。
〈長年の自己疎外から解放されて、自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すだとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。なにものかでありたいと思う気持ちや、名前や歴史を持ちたいと思う気持ちそのものから解放される。〉(「自由」)
つまり、この本は、「なにものか」であったように見える思想家や詩人たちの足跡をたどる本でありながら、彼らのように「なる」ための技法を授ける本ではないのです。「歩くこと」はむしろ、そうした技法を手に入れたいと思う気持ちそのものから、私たちを解放してくれる。
詩の体験、母語の外に出ること、学び捨てること
歩くという哲学』という本の鍵になる概念は、おそらくprésence(プレザンス)という語です。この語を「現前」「現存」と訳さずに、そのつど訳し変えたことは「訳者あとがき」にも書いたのですが、それは、単なる訳語選びの問題ではありませんでした。というのも、この語は「いま、ここに、たしかに自分がいて、世界と融和している」とでもいうような、きわめて強度の高い体験を抱え込むこともできる一語であり、グロにとっての「歩くこと」もまた、そのような感覚を引き起こすものとして語られているからです。
そして、それは、私の研究の中心にある「詩 poésie(ポエジー)」の体験にもつながるものです。つながる、というよりもprésenceの体験は、そのまま詩の体験である、とすら言えるかもしれません。
「詩」というと、一般的には、文学の一ジャンルのように思われやすいのですが、私が考えようとしているのは、もう少し広い意味での「詩的なるもの」、とりわけ「詩的体験」です。といっても、どこか別の世界に行くというわけではありません。ただ、いつもの何倍か激しくそこにいるような、なにか只事でない感じにみまわれる、というような体験です。あるいは、ずっとそこにあった見慣れていたはずのものが、急にかけがえのないものに見えてくる。それは「詩」の言葉によって引き起こされる感覚、つまり、いつもの何倍も言葉がそこにあって、動かすことができないように感じられる体験と、おそらく型として同一であるか、少なくとも根底ではつながった体験であるように思われます。
「詩」の体験によって気がつかされるのは、ふだん、言葉というものは、それほどにも透明な、空気のようなものにされているのだということです。とりわけ「母語」は、ふだんは意識すらしない「あたりまえ」のものにされている。ですから、なにか「外国語」を学ぶということは、母語というひとつのシステム、自分の意識や無意識といちばん関わりの深い、いちばん大きな「あたりまえ」の「外」へと踏み出してゆくことでもあります。
私が外国語や外国文学を面白いと思うのは、日本語や日本文化によって、いつのまにか「あたりまえ」と思い込まされていた感覚に、不意打ちを仕掛けられるのが好きだからです。「あたりまえ」をこわされるのを怖いと思う人もいるかもしれませんが、それは、むしろ、こわばりを解除されて「らくになる」ような体験です。
また「あたりまえ」があやしまれることのないままになると、異なる文化、異なる身体、異なる習慣をもった人たちを自分の尺度でしか見られなくなってしまい、外国人への排外主義や不寛容にもつながります。そうした意味で、外国語を学んだり、外国文学にふれたりすることは、今の日本にもっとも必要な訓練だと思いますし、それはまず、私たちを私たち自身の殻から連れ出してくれるはずです。
一般に「学ぶ」というと、新しい知識の獲得のように考えられがちですが、私の好きなフランス語に、désapprendreという動詞があります。apprendre(学ぶ)に否定辞がついたもので、「学び捨てる」とでも訳せるでしょうか。覚えたことを忘れてしまう、という意味ですが、身につけていた知識や固定観念をもういちど手放す、という意味でも使えます。知っていたことから抜け出して、少しずつ自由になってゆくこともまた「学ぶ」ということなのだと思います。
そう考えてみると、歩くこと、詩にふれること、外国語を学ぶことというのは、一見ばらばらなことのようでいて、そのどれもが、「こわばり」をほどかれて「異なるもの」へとひらかれる契機を含んだ、そういう体験なのだと思います。

文学が役に立たないなら、人間も役に立たない
最近はどこへ行っても生成AIの話を聞くようになりましたが、AIというものが人間の尺度を超えた、異常な「速さ」を持つものであるからこそ、逆に「遅さ」というものの尊さもまた、見直されているような気もします。一冊の本をただゆっくりと読んでみるだけで、いつもとはちがう時間のたたせかたができる、そういう時代に入ってきているのかもしれません。
『歩くという哲学』には、「遅さ」の真の対義語は「速さ」ではなく、「焦り」なのだという話が出てきます。〈スピードの幻想とは、それで時間を稼げると思い込むところにある〉。つまり、急ぐことによって、一日は「短く」なっているのです。
〈歩いて過ごした一日は、もっと長い一日に感じられる。そういう日には、いつもより長く生きた思いがする。時間の継ぎ目に無理な力をかけず、どの一時間にも、どの一分、どの一秒にも、それぞれがゆったりと呼吸できるように、奥行きをもたせたからだ。急げば、時間ははち切れてしまう。ゆっくりやる、ということは、時間に寄り添うことだ。一秒一秒が、粒となって感じられるほどに。一瞬一瞬が、露となって結ばれてゆく。小雨が石へと降りかかる時のように。時間がそんなふうにゆるやかに引き延ばされる時には、空間にも深さが宿る。〉(「遅さ」)
詩や文学作品を読んで過ごした一日も、いつもより長く生きた思いがします。文学は、すぐに役に立つ情報を手際よく仕入れるためのものではなく、まずは「時間」の体験だからです。生きている自分が、かつて生きた、あるいはまだ生きている誰かの「声」を通して、生きた時間を呼吸すること。だからこそ、それは「人間」の体験となりえます。
「文学は役に立たない」という言葉は、おそらく、文学を「体験」ではなく、なにかの「コンテンツ」か「データ」のように考えることから出てくるものなのでしょう。私には「文学は役に立たない」と言うことは、「人間は役に立たない」と言っているのと同じことのように聞こえます。あるいは「世界は何の役に立つのか」と問われているのと同じような奇妙さを覚えます。
文学は、ともすれば人間のなかで固定しがちな「言語」に揺さぶりをかけることによって、人間そのものを解放しつづけてきたものです。文学の言葉、詩の言葉は、情報とは違う、もっと精妙な――もっと「遅い」――回路を通って、異なるもの、異なる時間、異なる人々を私たちに体験させます。
「処理」するのとも「消費」するのとも違うかたちで、一語一語をたどってゆくうちに、自分の中で「あたりまえ」になっていたものがこわされてゆく。その風が入ってくるような感覚を身をもって知ったときにはもう、「文学は何の役に立つのか」という問いは、問う必要のない問いになっていると思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
