
スポーツ界では、指導者による暴力や暴言に加え、近年は選手同士の暴行事件も表面化しています。企業などでハラスメント対策が進むなか、なぜスポーツの現場では問題が繰り返されるのでしょうか。その背景には、スポーツ組織の閉鎖性や部活動の慣習、そしてジェンダーロールが複雑に絡み合っています。
スポーツ界で「暴力問題」が多発する理由
日本のスポーツ界ではこれまで、指導者による暴力や暴言が繰り返し問題視されてきました。ところが近年はそれにとどまらず、競技者のあいだで起きる暴力や暴言が大きく報じられるようになっています。しかも、その内容は指導者によるハラスメントと比べても決して軽いものではありません。
企業などの組織ではパワハラやセクハラの抑制に向けた取り組みが進められている一方で、なぜスポーツの現場では暴力がいまだに残り続けているのか、疑問を抱く人も多いのではないでしょうか。
この点については、まず情報環境の変化を踏まえる必要があります。スマートフォンやSNSの普及によって、これまで組織の内部にとどまっていた問題が可視化されるようになりました。つまり、現在報じられている事案の多くは最近になって急に発生したというよりも、以前から存在していた問題がようやく外部に認識されるようになったと捉えるのが適切です。むしろ、可視化が進んだことで、スポーツ界に固有の構造的な課題が浮き彫りになってきたとも言えます。
とりわけ重要なのは、スポーツ界における組織の閉鎖性です。多くの競技団体では、競技者として実績を残した人がそのまま指導者や運営側に回るケースが一般的になっています。その結果、外部の専門家や異なる価値観を持つ人材が入りにくく、組織全体が内向きになりがちです。
このような環境では、「自分が厳しい指導を受けてきたからこそ勝てた」という成功体験が強く共有され、それが疑われることなく正当なものとして維持されてしまいます。言い換えれば、過去の経験がそのまま規範として固定化され、社会全体の価値観の変化が十分に反映されにくい構造があるのです。
一方で、学校の部活動に目を向けると、また別の問題が見えてきます。日本の部活動制度は、多くの生徒にスポーツの機会を提供するという点で、世界的に見ても非常に特徴的であり、普及という観点では大きな成果を上げてきました。しかしその反面、必ずしも専門的かつ科学的な知見を持つ者が指導を行うとは限らないなど、指導体制には課題が残されています。
また、日本の学校教育の歴史を振り返ると、1970年代頃までは体罰が一定程度容認され、その後も長く残存していたという背景があります。まさに学校教育の負の側面の一つですが、とりわけ部活動の現場ではそれが顕著に現れていました。多くの人が部活動を通じてスポーツに親しむ一方で、叱責や暴力を受けながら「歯を食いしばって耐えることが美徳である」という価値観を内面化してきた側面は否定できません。
その結果として、社会全体ではハラスメントに対する意識が大きく変化しているにもかかわらず、学校の部活動をはじめとしたスポーツの現場では過去の価値観が残り続け、変化への対応が遅れてきたとも考えられます。つまり、スポーツにおける暴力の問題は、個々の指導者や競技者の資質だけに還元できるものではなく、制度や文化、そして歴史的な背景が複雑に絡み合った構造的な課題として捉える必要があるのです。
部活動の影に潜む「ケア」の機会の男女偏向
生徒間の暴力について、まず考えなければならないのは、競技環境の中で生徒たちが受けているストレスの大きさです。あくまで一般論ではありますが、特に強豪校と呼ばれるようなチームでは、「地区大会を勝ち抜くのは当然」「目指すのは全国大会優勝」といった極めて高い基準が日常的に課されます。
そのような環境の中では、集団としての規律や成果が強く求められる一方で、そのプレッシャーに耐えきれない生徒が出てくるのも無理はありません。競争が激化すればするほどストレスのはけ口が内部に向かい、同じチームの仲間に対する暴力や暴言として現れてしまう可能性も高まります。
実は、こうした傾向は高校生に限った話ではなく、日本のスポーツ界全体に通じる問題でもあります。過度なストレスがかかっているにもかかわらず、支援の仕組みが十分に整っていないのが現状だからです。たとえば、専門家によるカウンセリングや個々の選手のメンタル状態を丁寧に把握する体制は、まだ十分に普及していません。
さらに、部活動における暴力の背景を巨視的に見ると、ジェンダー構造の問題も浮かび上がってきます。たとえば高校野球では、男子生徒が「球児」として試合に出場し、女子生徒がマネージャーとしてそれを支えるという構図が現在でも広く見られます。
個々の生徒が自らの意思でマネージャーという役割を選ぶこと自体を否定はしませんが、「男性が競技に専念し、女性がそれを支える」という役割分担が半ば当然のものとして受け入れられている風土については、改めて検討する余地があります。
視点を変えれば、男子生徒がマネージャーにドリンクの準備や用具管理、記録、清掃といった「ケア」の役割を委ねているということは、結果として、彼ら自身が「ケア」を実践する場面が限定されているとも言えるでしょう。
本来、他者を支えたり、チームメイトのコンディションに気を配ったりする能力は、性別に関係なく身につけるべき重要な資質です。しかし現状の部活動では、そうした経験が偏って配分されており、特に男子生徒にとっては「ケアを学ぶ機会」が乏しくなっている可能性があるのです。
現代社会では、家庭における子育てや、将来的な介護といった場面において、男性が「ケア」を担うことはもはや特別なことではなくなりつつあり、むしろ、そうした役割を果たすことが当然とされる社会へと移行しています。
その意味でも、若い頃から自分自身のことだけでなく、周囲の人々に目を向け、支える経験を積むことはきわめて重要です。しかし、現在のスポーツや部活動のあり方は、その方向性と必ずしも一致していないように見えます。
現代社会は役割のジェンダー偏向という構図を見直し、乗り越えようとしています。その流れに反して、スポーツの現場がむしろ旧来的な男性性――「ケア」の軽視、過度な競争、暴力性の肯定――を再生産する場になっているとすれば、それは深刻な問題です。そして、そのような価値観は、将来的に男性自身の「生きづらさ」を生み出す要因にもなりかねません。
メディア表象の受け取り方に見る「男らしさ」の呪縛
この問題は、メディアのあり方とも無関係ではありません。一年延期を経て開催された東京オリンピック2020は、スポーツとジェンダーの関係を広く可視化する契機となりました。とりわけ、当時の組織委員会会長であった森喜朗氏の発言は、スポーツ界における性別観をめぐる議論を一気に加速させました。さらに、女性アスリートに対する盗撮や外見に関する言説なども問題化し、報道のあり方そのものが問われるようになりました。
その東京五輪開催の直前には、国際オリンピック委員会が2021 年版“Portrayal Guidelines; Gender-Equal, Fair And Inclusive Representation In Sport”(「スポーツにおけるジェンダー平等、公平でインクルーシブな描写のための表象ガイドライン」)を公表しており、和訳されて国内メディアに提供されました。しかし現実には、その後もアスリートの描かれ方におけるジェンダー的偏りが十分に解消されたとは言い難く、メディアの報道はなお過渡期にあります。
私たちの研究では、このような問題意識のもとで、メディア表現に対する受け手の違和感について調査を行いました。その結果、たとえば女性アスリートの容姿を「美しすぎる」「かわいい」といった言葉で強調する表現については、「違和感を覚える」とする回答が過半数を超えました。
同様に、男性アスリートに対しても「イケメン」「〜王子」といった外見に基づく言及には違和感を「覚える」が「覚えない」を上回っており、外見中心の語りそのものに対する批判的な意識が広がっていることがうかがえます。
さらに、「恋愛関係の有無を報じる」「他方の代表チームの結果のみを取り上げる」「身体の特定部位に焦点を当てた写真を掲載する」といった表現についても、男女いずれのアスリートに対しても違和感を覚えるという回答が多数を占めました。つまり、従来は当然視されがちだった報道のあり方に対して、受け手側の感覚は確実に変化してきているのです。

一方で、すべての項目において同様の傾向が見られるわけではありません。たとえば「〜ちゃん」「〜くん」といった「愛称」による呼称については、男性アスリートに対してのほうが違和感を覚えないとする割合が顕著に高く、女性アスリートとのあいだにおよそ20ポイントの差が見られました。
また、アスリートの「人柄」や「家庭生活」、「配偶者の支え」といった側面に焦点を当てた表現についても、男性アスリートの場合には相対的に違和感が抱かれにくい傾向が確認されています。
総じて言えば、女性アスリートをめぐる表象には敏感さが増している一方で、男性アスリートの表象については従来の枠組みが比較的そのまま受け入れられている状況が浮かび上がります。回答者の属性別に見ても、女性より男性のほうが、また高齢層より若年層のほうが、こうした表現に違和感を覚えにくい傾向がありました。
この結果は、受け手の意識変化が一様ではないこと、そして、とりわけ「男らしさ」に関わるステレオタイプがいまだに強固に残っている可能性を示唆しています。
強調したいのは、スポーツ界における暴力、ジェンダー、表象の問題は相互に結びついており、その背後には共通する旧来的な価値観が存在するという点です。競争や規律だけでなく、「ケア」や多様性をいかに組み込むのか。スポーツに内在するこうした価値の再編は、単なる競技環境の問題にとどまらず、社会全体のあり方を問い直す作業でもあります。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
