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2026.09.10

なぜ人は「短い物語」を求めるのか? ~ナラティブが社会の中で果たす新しい役割~

なぜ人は「短い物語」を求めるのか? ~ナラティブが社会の中で果たす新しい役割~
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近年、文学は「一冊の本を最初から最後まで読むもの」という前提を少しずつ失いつつあります。人々は長い物語よりも、「今・ここ」で体験できる短い物語や断片的なエピソードに触れるようになりました。こうした変化のなかで、物語はどのように社会の中で機能しているのでしょうか。読書の形の変化を手がかりに、ナラティブの新しい役割について考えます。

一冊の本として読まれなくなってきた「物語」

杉本 裕代 物語の読まれ方は、ここ数年で確実に変化しています。通勤電車で長編小説を読み進めるよりも、SNSで引用された一節から作品に触れる。あるいは、モノや空間をきっかけに物語を想像する。こうした断片的で状況依存的な読書体験は、コロナ禍を経てさらに加速しました。

 その背景には、働き方や生活リズムの変化があります。コロナ禍を機に、オンラインが生活にこれまで以上に入り込むようになり、物語に触れる機会が多様化し、よりパーソナライズされるようになってきました。これまでのように、まとまった時間を割いて物語に向き合わなくても、隙間時間に触れやすくなったと言えるでしょう。また、パーソナライズされてきたのは読まれ方だけでなく、内容面に関しても同様です。ニッチなテーマを扱う出版物の人気が高まっていることからも、それがうかがえます。

 こうした状況は、しばしば「集中力の低下」や「活字離れ」と結びつけて語られます。しかし、これまでの読書のあり方を振り返れば、一冊を通読することだけが唯一の読書体験だったわけではありません。必要な箇所だけを拾い読みすること、あるいは気になる本を、読んでいないにしろ、いつでも読めるように手元に置いておく「積ん読」といった行為もまた、人々の思考や価値観に影響を与えてきました。

 重要なのは、人々が物語から離れているのではなく、「物語との関係性」を組み替えているという点です。長大で完結したストーリーよりも、自分の置かれた状況や感情に呼応する小さな物語が選ばれるようになっています。断片であるがゆえに、受け手はそこに自分自身の経験や記憶を重ね、物語を補完していきます。

 断片的な物語体験は、意味を受け取るだけではありません。意味をつくり出す主体として人を巻き込みます。情報が過剰に流通し、正解が見えにくくなった社会において、この「自分なりに筋道をつくる力」は、これまで以上に重要になっていると言えるでしょう。

「物語の自販機」「ぬいぐるみのお泊まり会」が示す新たな読まれ方

 人々は長大な物語よりも、「今・ここ」に接続可能な物語的経験を求めるようになっています。その影響には功罪の両面がありますが、文字を読み想像するというプロセスを日常生活の中に確保するためのモメントとして、「物語の自販機」は象徴的な取り組みの一つです。

 フランス発の「物語の自販機」は、ボタンを押すと、1分・3分・5分といった読書時間別の短編小説や詩が、レシート状の紙に印刷されて無料で出てくる装置です。2015年にグルノーブルの市長が関心を抱き、市役所などの公共空間に設置。「スマホばかり見てしまう待ち時間を文学の時間に変える」というコンセプトが評価され、大きな話題となりました。その後、SNSやメディア報道を通じて国際的に注目を集め、空港、駅、図書館、病院、書店、企業オフィス、大学などへと設置が広がりました。現在ではアメリカ、イギリス、香港、日本など、さまざまな国や地域で導入されています。

 小説は本棚や書店という場所から切り離され、「待つ」という身体的・時間的経験の中へと縫い込まれる。これは、文学がメディアの形態を変えながらも、人間の時間感覚や感情の隙間に入り込もうとする運動だと言えるでしょう。

 日本では、株式会社トーハンによる取り組みが文化庁の推進事業に採択され、実証実験が2025年10月にスタートしました。東京・世田谷文学館、兵庫・フェリシモ チョコレート ミュージアム、東京・青山学院大学などに設置されています。複数のショートストーリーを登録しておき、ユーザーの操作によってストーリーをランダムに印刷し、その場で無料頒布するサービスです。日本社会における読書環境の変化を前提に、物語をインフラとして社会の中に組み込もうとする試みと位置づけることができるでしょう。

 この事業ではローカリティも重要な要素になっています。世田谷文学館では東急世田谷線の駅にゆかりのある物語を提供し、青山学院大学では学生が選んだおすすめの本や執筆したオリジナル作品を提供するなど、物語をより身近に感じるための仕組みが取り入れられています。

 また、子どもたちが愛用のぬいぐるみを図書館や美術館に預け、お泊まりさせる「ぬいぐるみのお泊まり会」というイベントも各地で広がっています。これは、ナラティブの代理経験という観点から興味深い事例です。

 私自身、コロナ禍以前ではありますが、世田谷区立図書館で行われていた「ぬいぐるみのお泊まり会」の運営を、学生とともに4年間サポートしてきました。「お泊り」が終わると、子どもたちは、ぬいぐるみ迎えにくるとともに、ぬいぐるみが図書館で読書や司書さんのお手伝いをした様子を写真カードとして受け取ります。そこで印象的だったのは、子どもたちが「自分が経験していない図書館の夜」を、ぬいぐるみの写真や報告を通じて「物語として」受け取っていたことです。

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絵本を読んだぬいぐるみから手紙が届くなどの疑似体験を提供することで、子どもたちの関心を喚起する「ぬいぐるみのお泊まり会」

 このイベントでは、物語はテキストとして「読む」ものではありません。ぬいぐるみが読書し、探検し、夜を過ごす。その設定そのものが、子どもたちの想像力を起動させ、物語を生成させる装置になっています。文学的想像力が、空間、モノ、写真、報告文といった複数の要素に分散して実装されているのです。

 こうした代理経験を通して、子どもたちがぬいぐるみに読み聞かせをするようになったり、ぬいぐるみが「読んだ」本を自分でも読んでみたくなったりすることも指摘されています。ある意味で、少し遠回りをする読書促進の取り組みとも言えるでしょう。

文学は「意味」ではなく「関係」を生み出す

 これらの事例が示しているのは、文学や物語の役割が「意味を解釈する対象」から「関係を生み出す装置」へと拡張しているという点です。

 従来の読書教育では、作品のテーマや作者の意図を読み取り、自分なりの感想をまとめることが重視されてきました。これは論理的思考を育てるうえで重要な訓練でしたが、一方で負担となり、活字への苦手意識を生んでしまう側面もあります。「読書感想文」という課題は、多くの人にとって苦労した思い出として残っているかもしれません。

 現在広がっているのは、意味を一つに定めない読書体験です。断片的に読んで刺激を受ける。他者の感想を聞いて新しい視点を得る。物語をきっかけに人や場所とつながる。ここでは、物語は完成された答えを与えるものではなく、関係性を媒介する存在として機能しています。

 私自身、意味ではなく関係を生み出す装置として文学が活用されている点に強い関心を抱いています。こうした関心は、これまで文学研究の中心的なテーマとして扱われることはあまりありませんでした。むしろ図書館情報学や教育学の領域で議論されることが多かったテーマです。しかし、文学研究の知見からこの現象にアプローチすることで、社会の中で物語がどのように活用されているのかを、より深く理解できるのではないかと考えています。これまでの文学研究の蓄積は、その理由や意義を説明するうえで大きな手がかりになるはずです。

 また今後は、文学を通して、読解力にとどまらない思考力を育てていくことも重要になるでしょう。複雑で不確実性の高い現代社会では、数字やロジックだけでは合意形成が難しい場面も少なくありません。そこで重要になるのが、出来事をどのような物語として共有するのかという視点です。文学的思考は、「わからないものをすぐに切り捨てない力」を育てます。すぐに答えが出ない問いに耐え、他者の視点を想像し続ける姿勢は、これからの社会において欠かせないものです。効率や即効性が求められる時代だからこそ、遠回りに見える思考が結果として新しい価値を生むこともあります。

 私たちは物語を受け取るだけでなく、それぞれの経験を語り直しながら、他者と共有しています。その積み重ねが、組織や社会で新たな意味や関係を生み出していきます。出来事をどのように語り、どのように理解し合うのか。その営み自体が、複雑な社会の中で他者とともに生きるための基盤になっているのではないでしょうか。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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