単一に見られがちな社会のなかで、文学が果たす役割
こうしたケベック文学が有する「他者」の視点は、日本社会を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれます。
私たちの日常には、無数の「他者」が存在しています。たとえばコンビニでおにぎりを手に取るという何気ない行為の背後にも、米を生産する農家、製造する工場の労働者、配送するドライバー、そして店舗で働く人々など、普段は意識されにくい周縁的な存在があります。
しかし日本社会には、東京への一極集中に象徴されるように、「社会は単一かつ中心的なもので成立している」という無意識の前提が見え隠れするように思えます。さまざまな次元で「標準」「普通」「規範」といったものに依存する傾向があり、そこに当てはまらない「異質なもの」すなわち「他者」は軽視されがちです。
実際には、都市の生活は地方の生産者によって支えられており、少子高齢化が進むなか多くの現場を支えているのは外国人労働者です。こうした人々を社会の不可欠な構成員として正当に位置づけるためには、まず「社会は決して単一ではない」という事実を認識し、私たちの社会がどのような関係性の上に成り立っているかを構造的に捉え直すことが必要です。
一方、ケベック社会は多様な移民を受け入れながら、フランス系文化を基盤としつつも移民文化・先住民文化・北米全体の影響が重なり合う、万華鏡のように多層的な文化を形成してきました。
フランス語を話すことがフランス文化と等価にはならないように、「日本文化」もまた決して一つではないのだと私は思います。中心となる文化が存在することを否定するわけではありませんが、唯一絶対のものとして固定される必要はないはずです。その周縁の多様な文化や価値観と、どのように共存していくか。それが今まさに問われているのではないでしょうか。
少数派の人々が自らの言葉で語ることが重要である一方で、多数派の側にもその言葉を傾聴しようとする姿勢が求められます。対話とは、そのような相互的な営みのなかでこそ成立するものだと思います。
文学は、そのための重要な手がかりを提供してくれます。多数派の側にいる人々が「他者」を理解しようとするとき、文学は直接その人の話を聞くこととは異なる回路で、「他者」の内面や経験に触れることを可能にするからです。
「他者」とは、突き詰めれば「何を考えているのか完全にはわからない存在」です。だからこそ、私たちは想像し、読み取り、理解しようとする回路を持ち続ける必要があります。「他者」が描く、あるいは「他者」を描く文学は、そのかけがえのない媒介になると私は考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
